私はネオ・ラッダイトになりつつあるのだろうか
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Wikipediaでネオ・ラッダイトやネオ・ラッダイズムを調べてみると、この運動の主要な思想的影響者の一人とされるチェリス・グレンディニングが、論文Notes towards a Neo-Luddite manifestoの中で、ネオ・ラッダイトを次のように定義している。
抑制なきテクノロジーこそが進歩であると説く、支配的な現代の世界観に疑問を投げかける20世紀の市民――活動家、労働者、隣人、社会批評家、そして学者たち。
そして、自分が最も熱中している趣味を見てみると、その少なくとも半分は、より伝統的なものに根ざしていることがわかる。
- ヘリテージ系の靴
- 腕時計
- 万年筆
- 写真
- オーディオ機器
- 電子書籍と電子書籍リーダー
写真への関心もネオ・ラッダイズムの考え方に当てはまると言うこともできるかもしれない。ただ、現代の写真は最新技術に大きく依存しているため、私自身はそこには含めていない。
とはいえ、趣味だけを見ても、この分野についての私の考えの全体がわかるわけではない。抑制なきテクノロジーが進歩を意味するという考えには疑問を投げかけるべきだという主張には全面的に賛成だが、ネオ・ラッダイズムと関係があるとされる他のいくつかの運動には与することはできない。例えば反グローバリゼーション運動や、アナルコ・プリミティビズムなどがそれだ。
では、自分自身を何だと考えているのか。10年以上前、私はテクノロジーとの自分の関係を表すために別の言葉を考えた。「テクノ・カーマッジオン(Techno Curmudgeon)」だ。カーマッジオンとは、基本的にミサンスロープ(人間嫌い)に近い存在で、他人や人間の本性を信用しない人のことをいう。ただ、私の場合は信用していない対象が人間ではなくテクノロジーなのだ。ここ20年ほどの間に起きた変化の多くは、人々のためにテクノロジーをより良くするという明確な目的を持った変化というより、変化のための変化に過ぎなかったと考えている。
テクノロジーに対するこの不信感は、これまでに目の当たりにしてきた数え切れないほどのテクノロジー濫用の事例に根ざしている。私をテクノ・カーマッジオンにした決定的な出来事を一つ挙げるとすれば、それはHow Target Figured Out A Teen Girl Was Pregnant Before Her Father Didという記事だ。(注:元記事はニューヨーク・タイムズに掲載されたものだが、Forbes版で詳しく参照されている)。
はっきり言って、私に言わせればあれは深刻なプライバシー侵害だ。警察や政府機関が図書館の貸し出し履歴の開示を要求するようなものだし、保険会社があなたのプロフィールを構築して、どうでもいいような理由で保険金の支払いを拒否するのと同じレベルの話だと考えている。
こうしたことは、もっと最近の出来事にも当てはまる。例えば、Mozilla Foundationが広告企業になろうとしている件だ。必要な資金を調達しつつ当初の理念を貫くための想像力が欠けているというだけで、突然、ユーザーが売り物にされてしまうのだ。
結局のところ、テクノ・カーマッジオンになるということ――ぜひもっと広めたい言葉だが――は、テクノロジーをテクノロジーのために受け入れたりはしないということだ。健全な懐疑心を持ち続けており、それは趣味にも表れている。どの趣味も、コンピュータやオンラインの世界との関わりを最小限に抑えるためのものだ。むしろテクノロジーから距離を置くためにテクノロジーを利用している(例えば、パソコンから離れるために電子書籍リーダーを使うように)。このリストには表れていないことがもう一つある。サブスクリプションをできるだけ持たないようにしているということだ。SpotifyもNetflixも、その他の配信サービスも利用していない。
といっても、有害なテクノロジーを完全に避けられているわけではない。例えば、住んでいる場所の関係で、Amazonは使わざるを得ない。必要なものを(大体は)確実に届けてくれるのはそこしかないからだ。ただ、可能な限り、有害であることが明らかになったテクノロジーや、変える必要性が証明されていないテクノロジーは避けるようにしている。
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