A Clarification

Sam Altman

補足

原文は Sam Altman により に公開されました。 このブログを購読する

先日の投稿で、私はある点について不器用で誤解を招きやすい書き方をしてしまったので、ここで補足させてください。

私が言いたかったのは、科学の進歩のために、たとえ優秀でも同性愛嫌悪を露わにするような困った人物を研究室で我慢すべきだということではありません。有名な反例はあるものの、私が出会ってきた最も優れた科学者の多くは、むしろ並外れて親切で、偏見のない人たちでした。一般的に言って、そうした人物を容認しない研究室の方が、容認する研究室よりも優れた成果を上げると私は考えていますし、そうした人物を雇わないという選択は賢明です。困った人物は往々にして組織全体の成果を下げてしまうからです。

私が言いたかったのは、ただシンプルに、社会として論争的なアイデアを許容する必要があるということです。最も大きな新しい科学的アイデアも、社会における最も重要な変化も、その出発点はきわめて不人気なアイデアなのです。

それほど昔のことではありませんが、「ゲイであっても問題ない」と口にすること自体が文字どおりの異端とされた時代がありました。聖書には異なる見解が書かれているからです。正統とされる考えへの異議を許さない社会であれば、ゲイの権利は決して実現しなかったでしょう。

私たちが言論の自由を認めるべきなのは、社会が間違うことがあるからです。「ゲイは悪だ」というのが社会の通念だった時代に、「ゲイであっても問題ない」と言える人が必要だったのです。

正しい発言だけを常に許し、間違った発言だけを常に禁じるような、シンプルなルールを作ることはおそらく不可能でしょう(もっとも、この件に関して言えば、今なお一部の地域でゲイの人々が身の安全に不安を抱えているというのは間違ったことだと、私は確信しています)。

だからこそ私たちは社会として、人は論争的なことを口にしてもよい、そして言論の自由は双方向に機能するものだということに合意しているのです。その特権が嫌な振る舞いをするために使われることも多々ありますが、私たちは彼らの偏狭さがなぜ悪いのかを指摘できるし、指摘すべきですし、実際に指摘しています。一方で、その自由が、すべての人はより多くの権利を得るべきだと主張するため、あるいは太陽系の仕組みは教会が説くものとは違うと唱えるために使われることもあります。そして時折、私たちは集団としてその声に耳を傾けるのです。

長い目で見れば、このシステムがより公正な世界を作り出してきました。それは、人間という存在全体について、実に素晴らしいことを物語っています。

もし可能なら、憎悪や差別、偏狭さだけは決して許さず、論争的でありながらも重要なアイデアについての議論は常に許容する、そんなうまいやり方を見つけられればいいのにと思います。もしそれが可能なら、私は喜んで支持するでしょう。両者の区別は通常は明確ですが、例外がきわめて重要になることもあります。正確にどこで線を引くべきかを見極めるのは、本当に難しいことです。

私たちより前の世代は、私たちが今(私の考えでは正しく)非倫理的あるいは間違っていると信じていることを、数多く信じていました。未来の世代から見れば、私たちが今信じていることの多くもまた、非倫理的あるいは間違っていると思われるでしょう。

例えば、今日「肉を食べる人は誰であれ非倫理的だ」と言うのは、かなり不人気な意見です。しかし、動物の権利についての考え方の変化や、地球環境への影響、そして培養肉などの代替品の普及を考えれば、50年後にはこれが当たり前の立場になっていることは十分に想像できます。あるいは、人工知能の登場によって、単に自分たちよりはるかに知的能力が低く、感情的にも未発達だからという理由で他の生物を食べてもよいとする考え方自体が、変わってくるのかもしれません。

以前このことについて誰かと話そうとしたとき、相手は「肉食を禁止することは自分の権利の侵害だ。この件は議論の余地などない」といったことを言いました。

私たちが人々を貧困の中で生きさせているという事実もまた、未来の世代から見れば絶対的な道徳的失敗とみなされるだろうと私は思います。他にも挙げればきりがありませんし、最も重要なアイデアのいくつかは、私にはまだ思いつきもしないのだろうと思います。

私が最も言いたかったのは、不快だと感じるトピックについての議論をただ禁じてしまうことは危険だということです。昨日起きたようなことがまさにそれです。

この記事は「muse-spark-1.2-contributor」を使用して翻訳されました。

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