Wohpeを書く
(この記事のイタリア語訳はこちら: http://antirez.com/news/137)
[この記事の体裁についてお詫びしておきたい。初めて二言語(イタリア語と英語)で記事を書いたので、まずイタリア語で書いてGoogle翻訳で訳し、あとでざっと目を通して一番ひどいところだけ直すという、ちょっと変わったやり方をとった。今のGoogle翻訳はとても優秀なので、このやり方でも十分通用する。]
2年がかりの作業を経て、ようやく『Wohpe』が発売された。私にとって初のSFであり、初の長編散文でもある。イタリアの書店、Amazon、その他の電子ストアで手に入る。こちらからどうぞ: https://www.amazon.it/Wohpe-Salvatore-Sanfilippo/dp/B09XT6J3WX
これほどの長さの文章を書くのは初めてだ、と言った。だが、自分のことをまったくの初心者と言えるだろうか。私はこのブログや、かつて続けてきたブログで20年にわたって書いてきたし、Facebookでも空想や実話をもとにした短い物語をたびたび書いてきた。加えて、同じくらいの期間、技術的なこと、とりわけプログラミングについても書いてきたし、物心ついたときからずっと短編や長編の読者でもあった。ではなぜ、『Wohpe』を書くことは、また一から書くことを学ぶことでもあったのか。
小説を書き始めて最初の数か月、さらにその前の、結局は捨てることになる長めの物語を書いて準備していた数か月のあいだ、私に起きたことは、チェスを学ぶ人によく起きることだった。多くの人はこういう道をたどる。まずルールを覚える。それはそれでいいのだが、ルールだけでは大したことはできない。合法的に駒を動かせるようになるだけだ。だがそのすぐあと、戦術や戦略の初歩をかじり、もしかすると数週間みっちり勉強する。しかし盤面を前にすると、ある一手が他の一手より圧倒的に悪い、あるいは良いというのでなければ、どの手も同じに見えてしまう。未熟で経験の浅いプレイヤーは、手に対する本当の味覚を持っていない。手を絶対的な良し悪しで評価できないだけでなく、自分の構想に照らしてすら評価できない。結果として指し手は偶然まかせになる。何時間も指し続けてようやく、人は、正しいか間違っているかは別として、少なくとも一貫性のある、しっかり考え抜かれた選択ができるようになる。「このナイトをここに動かしたい、理由はこうだ。だから他のどの手よりもこの手を選ぶ」というふうに。
書き始めたばかりの人も同じだ。ある一文が良いとしても、本人にはまず分からない(先ほどの比喩で言えば、チェス初心者の指し手が偶然まかせになるように、文章も偶然まかせになる)。コンマを移し、単語を入れ替える。これで良くなったのか悪くなったのか。学校で書き、大人になってからも書く中で培った考えはある。だが、文学的な水準の散文を書こうとするとき、それらはほとんど役に立たない。初心者の書き手はまだ自分の文体を持っていない。なぜなら、書くことを知る前に、まず読むことを知らないからだ。大好きな本を読んでも、ページの上で*何が*それほど説得力を持たせているのかを正確に理解することはめったにない。だから自分の文章を読み返しても、良く書けているのか悪く書けているのか分からないのだ。「読みなさい、書きたいなら!」と誰もが言う。残念ながらそれは真実ではない。まず書かなければ、書けるようにはならない。映画監督になるために短編を撮らなければならないのと同じで、他の映画を観るだけでは足りない(もちろん役には立つが)。そして書けるようになるために本当に必要な読書とは、モデルとして選んだ何冊かの本を読み返すことだ。形を余すところなく理解するための読み返しが役に立つのだ。いま、自分の文体が何であるかを理解し、ようやく読み方を知り、作品を手にした瞬間に判断が自然と湧いてくるようになったという、ただそれだけでも、2年間の執筆の努力に対する十分すぎる報酬になっている。
そして、この経験自体がそれほど大きな価値を持っていたことは幸いだった。なぜなら、多くの新人作家が知らないのは、世界の出版市場、とりわけイタリアの出版市場がいかに過酷であるかということだ。イタリアでは、中小の出版社から出たSFの本が「よく売れた」と言われるのが500部だ。その数字で上出来としなければならない。ほとんどの本は100部も売れない。コンピュータサイエンスの人間からすれば身震いするような数字だ。私が書いた一番くだらないプログラムでさえ、その10倍のユーザーを持っていた。もう少し踏み込んで言えば、最低限の力を込めて公開した一番くだらないプログラムでさえ、その10倍の*読者*、つまり仕組みを理解しようとソースコードを読んだ人を持っていたと言ってもいい。私は、誰に感謝すればいいのか分からないが、ある程度知られたプログラマーだった、と言えるかもしれない。言いたいのは、私個人の経験をはるかに超えたことだ。誰にも知られていない人でも、プログラミングの世界で平均的に面白いことを、きちんと説明し文書化して、少し周りに見せれば、小説の作者に向けられるものとは比べものにならないほどの関心を集める。理由はたくさんあり、どれもごく当たり前なので、わざわざ立ち止まる価値もない。では、なぜこんなことを言っているのか。理由はこれだ。
文学以外で、作品を生み出すのに必要な労力と、乏しい読者の反応とのあいだに、これほど途方もない不均衡がある活動はそう多くない。多くの時間を書くことに捧げようと決めた人は、この事実を最初から知っておかなければならない。幸い私は、物書きの友人たちのおかげですべて承知していた。とはいえ、この「無」に等しい存在感の、ある種のニュアンスは、やはり受け入れるのが難しい。
では、なぜみんな書くのだろうか。出版という運試しに挑む人の列は溢れかえっている。ITの世界で多くの人が新しいプログラミング言語を作ろうとするのと似た仕組みだと思う。失敗はほぼ確実だ。それでも、それを作ることは、自分の最良のエネルギーを注ぐ対象として、これ以上ないほど満足のいく営みなのだ。
いま私は岐路に立っている。散文をもっと書き続けることも、コーディングに戻ることも、あるいは二つの活動を同時に生かし続けることもできる。何をするのか、まだ分からない。とりあえず、『Wohpe』がどうなるか見てみよう。イタリア語版も、現在優秀な翻訳者が作業を進めている英語版も。そして著者の協力を得て行われる翻訳というものが、文献学的な観点からいかに意義深い経験であるかについては、また別の機会に話そうと思う(Bridgetと私は英語とイタリア語を話すが、互いに母語が逆なのだ。翻訳者と著者が協働する上で、これはとても面白いことだ)。最後に、読んでくれている人たちにこう言って締めくくりたい。気が向いたら、散文を書いてみてほしい。今ならはっきり分かる。何百年ものあいだ、書くことが挑むに値する最高の芸術とされてきたのは、決して偶然ではない。書くことで人は何かを探し、しつこく探し続ければ、本当に見つけ出すことになるのだから。
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