話すように書く
書いたものをもっと多くの人に読んでもらうための、簡単なコツがあります。話し言葉で書くことです。
たいていの人は、書き始めると何かに取りつかれたようになります。友人に話すときなら使うはずの言葉とは、まるで違う言葉で書くのです。文の構造も、使う単語さえも違います。英語の話し言葉で、penを動詞として使う人はいません。友人との会話でwriteではなくpenと言ったら、自分がばかみたいに感じるでしょう。
僕にとって決定打になったのは、数日前に読んだ次の一文です。
気まぐれなスペイン人本人が、こう宣言した。「アルタミラ以後は、すべて退廃だ」
ニール・オリヴァーのA History of Ancient Britainに出てくる一文です。この本を例に挙げるのは申し訳ないと思います。ほかの多くの本よりひどいわけではないからです。でも、友人に話すときにピカソを「気まぐれなスペイン人」と呼ぶところを想像してみてください。会話の中でこんな文を一つ言っただけでも、眉をひそめられるでしょう。それなのに、こういう文章で本を一冊まるごと書く人がいます。
そう、書き言葉と話し言葉は違います。では、それで書き言葉のほうが悪くなるのでしょうか。
書いたものを読んで理解してもらいたいなら、答えはイエスです。書き言葉はより複雑なので、読むのに余計な労力がかかります。形式ばっていて距離もあるため、読者は注意をそらしてもいいような気持ちになります。でも、おそらく最悪なのは、複雑な文や凝った単語のせいで、書き手であるあなたが、実際よりも多くを語っているような錯覚に陥ることです。
複雑な考えを表現するのに、複雑な文は必要ありません。ある難解な分野の専門家たちが、その分野の考えについて互いに話すとき、昼食に何を食べるか話すときより複雑な文を使うことはありません。使う単語はもちろん違います。でも、それさえ必要以上には使いません。僕の経験では、話題が難しいほど、専門家はくだけた話し方をします。思うに、その理由の一つは、証明しなければならないことが少ないからです。もう一つは、話している考えが難しいほど、言葉に邪魔をさせる余裕がなくなるからでしょう。
くだけた言葉は、考えにとっての運動着です。
話し言葉がいつでも最適だと言っているわけではありません。詩は文章であると同時に音楽でもあるので、会話なら言わないようなことも言えます。散文で凝った言葉を使っても許される作家も、少数ながらいます。それにもちろん、何を言っているのかをわかりやすくしたくない場合もあります。たとえば、悪い知らせを伝える企業の発表や、人文学の中でもよりいかがわしい領域などです。でも、それ以外のほぼすべての人にとっては、話し言葉のほうが優れています。
話し言葉で書くのは、たいていの人にとって難しいようです。だから、いちばんよい解決策は、まず普段どおりに初稿を書き、そのあとで一文ずつ見直し、「友人に話していたら、こんなふうに言うだろうか」と自分に問いかけることかもしれません。そうでなければ、実際には何と言うかを想像し、それを使います。しばらくすると、書いている最中にもこのフィルターが働き始めます。言わないようなことを書いたときには、それがページに落ちた瞬間、ガチャンという音が聞こえるようになります。
新しいエッセイを公開する前には、声に出して読み、会話のように聞こえないところをすべて直します。音として言いにくい部分まで直します。そこまで必要なのかはわかりませんが、大した手間ではありません。
このコツだけでは、いつもうまくいくとは限りません。話し言葉からかけ離れすぎていて、一文ずつ直すことができない文章も見たことがあります。そういう場合には、もっと思い切った解決策があります。初稿を書いたあと、いま書いたことを友人に説明してみるのです。そして、初稿を友人に話した内容で置き換えます。
僕のエッセイは、まるで僕が話しているように聞こえる、とよく言われます。これがわざわざ言及する価値のあることだと思われている事実からも、人々が話し言葉で書くことにどれほど成功していないかがわかります。そうでなければ、誰の文章もその人が話しているように聞こえるはずです。
話し言葉で書くことさえできれば、書き手の95%より一歩先に出られます。しかも、やることはとても簡単です。友人に話すときの言い方になっていない文は、通さなければいいのです。
謝辞 この原稿を読んでくれたPatrick CollisonとJessica Livingstonに感謝します。
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