捨てるべき教訓
学校で身についた最も有害なことは、特定の授業で習ったことではない。良い成績を取ろうとすること自体を学んでしまったことだ。
大学のとき、ひときわ生真面目な哲学の大学院生にこう言われたことがある。授業では成績なんて気にしない、大事なのはそこで何を学べたかだけだ、と。当時それが強く印象に残ったのは、それまでそんなことを言う人に一度も会ったことがなかったからだ。
私自身、多くの学生と同じく、大学では学びの「測定」が実際の学びそのものを完全に覆い尽くしていた。決して不真面目だったわけではない。受けた授業の多くに本気で興味があったし、勉強もよくやった。それでも、圧倒的に一番頑張ったのはテスト勉強のときだった。
本来、テストとは名前が示すとおりのものにすぎない。授業で学んだことを試すものだ。理屈の上では、授業のテストのためにわざわざ準備などしなくてもいいはずだ。血液検査のために準備がいらないのと同じように。講義に出て、文献を読み、課題をこなすことで学び、そのあとに行われるテストはどれだけ身についたかを測るだけのはずなのだ。
だが実際は、これを読んでいるほぼすべての人が知っているように、話はまったく違う。この本来の説明を聞いても、意味がすっかり変わってしまった言葉の語源を聞くような感覚になるだろう。実際には「テスト勉強」という言葉自体がほとんど冗長だった。なぜなら、本当に勉強していたのはまさにそのときだからだ。真面目な学生とそうでない学生の違いは、前者がテストに向けて猛勉強し、後者がそうしなかったという点に尽きる。学期が始まって二週間で徹夜する者などいなかった。
私は真面目な学生だったのに、学校でやった作業のほぼすべては、何かで良い成績を取ることを目指したものだった。
この前の文に「のに」が入っているのを不思議に思う人も多いだろう。だって同語反復ではないか、と。真面目な学生とは、すなわちオールAの学生のことではないのか、と。それほどまでに「学び」と「成績」の混同は私たちの文化に深く染み込んでいる。
学びと成績が混同されることは、そんなに悪いことなのだろうか。悪いことだ。そしてそれがどれほど悪いことか、私が気づいたのは大学を出て何十年も経ち、Y Combinatorを運営するようになってからだった。
学生だった頃でさえ、テスト勉強が実際の学びと同一でないことはもちろん分かっていた。せめて、試験前夜に詰め込んだ知識が定着しないことくらいは。だが問題はそれだけではない。本当の問題は、ほとんどのテストが、測るはずのものをまったく測れていないということだ。
もしテストが本当に学びを測るものだったら、事態はそこまでひどくはなかっただろう。良い成績を取ることと学ぶことは、少し遅れて収束するはずだ。問題は、学生に課されるほぼすべてのテストが、ひどくハック可能だということだ。良い成績を取ってきた人なら誰でもこれを知っているし、分かりきったこととして、もはや疑いさえしない。そうでない振る舞いがどれほど世間知らずに響くかを考えれば分かるだろう。
たとえば中世史の授業を取っていて、期末試験が近づいているとしよう。期末試験は中世史の知識を試すもののはずだ。ならば、試験までの二、三日で、試験で良い点を取ろうと思ったら最善の過ごし方は、見つけられるかぎりの優れた中世史の本を読むことだろう。そうすればたくさん知ることができ、試験でも良い点が取れるはずだ。
いやいや、と経験を積んだ学生なら心の中で言うだろう。ただ良い本を読んでも、そこで得た知識のほとんどは試験に出ない。読むべきは良い本ではなく、この授業の講義ノートと指定された文献だ。しかもその中でも大半は無視できる。なぜなら、試験問題になりそうなことだけを気にすればいいからだ。探しているのは、きっちりと切り分けられた情報の塊だ。指定文献の中に面白い脱線があって繊細な論点が論じられていても、それは試験問題にしにくいので安全に無視できる。だが、教授が「1378年の大シスマには三つの根本原因がある」とか「黒死病には三つの主要な帰結がある」と言ったなら、それは覚えておいた方がいい。そしてそれが実際に原因や帰結だったかどうかは、この授業に関するかぎりどうでもいいのだ。
大学では過去問のコピーがよく出回っていて、何を学ぶべきかはさらに絞り込まれる。この教授がどんな問題を出すかを知れるだけでなく、実際の試験問題そのものが手に入ることも多い。多くの教授は問題を使い回す。十年も同じ授業を担当すれば、意図せずともそうなるのは避けがたい。
授業によっては、教授が何らかの政治的な持論を抱えていることがあり、その場合は自分も同じ論調に合わせなければならない。その必要性の度合いはさまざまだ。数学や理系、工学の授業ではめったに必要ないが、対極には、その持論に同調しなければ良い成績など取れない授業もある。
xについての授業で良い成績を取ることと、xについて深く学ぶことはあまりにも違うため、どちらかを選ばなければならない。そして学生が成績を選んでも責めることはできない。誰もが成績で彼らを評価するのだから――大学院も、企業も、奨学金も、親でさえも。
私は学ぶことが好きだったし、大学で書いた論文や作ったプログラムの中には心から楽しんだものもある。だが、ある授業で論文を提出したあと、楽しいからといってもう一本書いたことがあっただろうか。もちろんない。他の授業の締め切りに追われていたからだ。学びか成績かの選択を迫られれば、私は成績を選んだ。わざわざ大学に入って成績を落とすために来たわけではなかった。
良い成績を取りたいと思う者は誰でも、このゲームに乗らざるを得ない。そうしなければ、乗る者に追い抜かれてしまうからだ。そしてエリート大学では、それはほぼ全員を意味する。そもそも成績を気にしないような人は、そこに入ってきていないのだから。結果として、学生たちは「学ぶこと」と「良い成績を取ること」の乖離を最大化しようと競い合うことになる。
なぜテストはこれほどひどいのか。より正確に言えば、なぜこれほどハック可能なのか。経験のあるプログラマーなら誰でも答えられるだろう。ハックされないように何の注意も払わずに作られたソフトウェアは、どれほどハック可能か。たいていはザルのように穴だらけだ。
ハック可能であることは、権威によって課されるテストのデフォルトだ。学生に課されるテストが一貫してひどいのは――測るはずのものを測ることから一貫して遠いのは――単に、作る側がハックされないようにする努力をほとんどしていないからにすぎない。
だがテストがハック可能だからといって先生を責めることはできない。彼らの仕事は教えることであり、ハック不可能なテストを作ることではない。本当の問題は成績、もっと正確に言えば、成績にあまりにも多くの役割が背負わされていることだ。もし成績が、コーチが選手に助言を与えるように、先生が生徒に何ができていて何ができていないかを伝える手段でしかなかったら、学生がテストをハックしようとする誘惑は生じないだろう。だが残念なことに、ある年齢を過ぎると成績は助言以上のものになる。教えられる場では、同時に評価もされているのが常なのだ。
ここでは大学のテストを例に挙げたが、実はそれが最もハックされにくい部類だ。学生が人生で受けるほとんどのテストは少なくとも同程度にひどく、中でも飛び抜けてひどいのが、大学に入るためのテストだ。大学入試が、入試担当者が志願者の頭の質を、科学者が物体の質量を測るように測定するだけのものだったら、十代の子どもたちに「たくさん学べ」とだけ言っておけば済むだろう。高校の現実がそれとどれほどかけ離れているかを考えれば、このテストがどれほどひどいか分かるはずだ。実際、意欲的な高校生がやらされる奇妙なまでに細部まで決められたあれこれは、大学入試のハック可能性に正比例している。興味もないのに丸暗記が中心の授業、「多面的」な人間だと見せるために参加させられる行き当たりばったりの「課外活動」、チェスのように人工的な標準テスト、狙うべき的はごく限られているはずなのに何なのか教えてもらえない「エッセイ」。
このテストは、子どもたちにもたらす影響という意味でひどいだけでなく、きわめてハック可能だという意味でもひどい。ハック可能すぎて、それをハックするための産業丸ごとが成長してきたほどだ。受験対策企業や入学コンサルタントはそれを公言された目的としているが、私立学校の機能のかなりの部分もまた同じだ。
なぜこのテストはとりわけハック可能なのか。それは測っているもの自体に理由があると思う。世間では良い大学に入るにはとにかく頭が良ければいいと語られるが、エリート大学の入試担当者は、頭の良さだけを求めているわけでも、そう主張してもいない。では何を求めているのか。単に頭が良いだけでなく、より広い意味で立派だと感じられる人物だ。そしてそのより広い意味での立派さはどう測られるのか。入試担当者が「いいな」と感じるかどうかだ。言い換えれば、彼らは気に入った人を合格させるのだ。
つまり大学入試が試しているのは、ある集団の好みに合うかどうかだ。もちろん、そんなテストがハック可能になるのは当たり前だ。そして非常にハック可能で、しかも(そう思われているだけだが)かかるものが大きいから、これほどまでにハックされ尽くしている。だからこそ、これほど長く人生を歪めるのだ。
高校生が疎外感を覚えるのも無理はない。彼らの生活の形そのものが完全に人工的だからだ。
だが教育制度があなたにする最悪のことは、時間を無駄にさせることではない。最悪なのは、勝つ方法とは出来の悪いテストをハックすることだ、と訓練してしまうことだ。これはもっと微妙な問題で、私自身、他の人たちに起きているのを見るまで気づかなかった。
Y Combinatorで起業家たち、とりわけ若い起業家たちに助言を始めたとき、彼らがいつも物事を必要以上に複雑にしていることに戸惑った。どうすれば資金を調達できますか。どうすればベンチャーキャピタリストに投資したいと思わせられますか、と彼らは尋ねる。VCに投資したいと思わせる一番の方法は、実際に良い投資先になることだ、と私は説明した。たとえ悪いスタートアップに投資するようVCを騙せたとしても、自分自身をも騙していることになる。VCに金を投じてもらおうとしているのと同じ会社に、君たちは時間を投じているのだ。もしそれが良い投資でないなら、なぜそもそもやっているのか。
なるほど、と彼らは言う。そして少し間を置いて、この新たな発見を消化してから、こう尋ねるのだ。では、どんなスタートアップが良い投資なのですか、と。
そこで私は、スタートアップを有望にするものは、投資家の目から見ても実際にそうであるという意味でも、成長だと説明する。理想的には売上、だめなら利用者数だ。やるべきはたくさんのユーザーを獲得することだ、と。
どうすればたくさんのユーザーを獲得できるのか。彼らはいろいろなアイデアを持っていた。大きなローンチをして「露出」を稼ぐ必要がある。影響力のある人に取り上げてもらう必要がある。注目を最も集められるから火曜日にローンチする必要がある、ということまで知っていた。
いや、と私は説明する。たくさんのユーザーを得る方法はそんなものではない。たくさんのユーザーを得る方法は、プロダクトを本当に素晴らしくすることだ。そうすれば人は使うだけでなく友人にも勧めるようになり、一度きっかけをつかめば成長は指数関数的になる。
ここまで来ると、私は起業家たちに、誰もが当たり前だと思うようなことを伝えたことになる。良い会社を作るには良いプロダクトを作れ、と。だが彼らの反応は、物理学者が初めて相対性理論を聞いたときのようなものだった。一見天才的に見えることへの驚きと、こんな奇妙なことが正しいはずがないという疑いが混ざった反応だ。分かりました、と彼らは従順に言う。そして、誰々という有力者を紹介してもらえますか、と続ける。あと、火曜日にローンチしたいんです、と。
この単純な教訓を理解するのに何年もかかる起業家もいた。彼らが怠け者だったり頭が悪かったりしたからではない。目の前にあるものが見えなくなっていたのだ。
なぜ彼らはいつも物事をこんなに複雑にするのか、と自問していた。そしてある日、それが修辞的な問いではないことに気づいた。
なぜ起業家たちは、答えが目の前にあるのに、間違ったことをして自縄自縛に陥るのか。それが訓練の成果だったからだ。彼らの教育は、勝つ方法とはテストをハックすることだと教えてきた。そしてそれを教えていることさえ告げずに。とりわけ卒業したての若い起業家たちは、人工的でないテストに一度も直面したことがなかった。彼らにとって、それが世界の仕組みそのものだったのだ。何かに挑むとき、まずやるべきはテストをハックする裏技を見つけることだ、と。だから会話はいつも資金調達の話から始まった。それがテストに見えたからだ。YCの最後にあり、数字がついていて、数字は大きいほど良いように見える。テストに違いない、と。
もちろん、世の中にはテストをハックすることで勝てる領域がかなり広く存在する。この現象は学校に限ったことではない。そして思想や無知から、これがスタートアップにも当てはまると主張する人もいる。だがそうではない。実際、スタートアップで最も顕著なことの一つは、ただ良い仕事をすることで勝てる度合いの高さだ。何事にも例外はあるが、一般的にはユーザーを獲得することで勝ち、ユーザーが気にするのはプロダクトが自分たちの望むことをやってくれるかどうかだ。
なぜ起業家たちがスタートアップを複雑にしてしまう理由を理解するのに、私はあんなに時間がかかったのか。学校が私たちに、出来の悪いテストをハックして勝つように訓練していることを、はっきりと自覚していなかったからだ。そして彼らだけでなく、私自身もだ。私も出来の悪いテストをハックするように訓練されていたのに、何十年も気づかなかった。
私はそれに気づいているかのように生きてはきたが、なぜそうしているのかは分かっていなかった。たとえば、大企業で働くのを避けてきた。理由を問われれば、インチキくさいから、官僚的だから、あるいは単に気持ち悪いから、と答えただろう。大企業が嫌いな理由の多くが、そこでは出来の悪いテストをハックすることで勝つのだという事実にあったとは、ついぞ理解していなかった。
同様に、テストがハック不可能だという事実が、スタートアップに惹かれた大きな理由だった。だがやはり、それをはっきりとは自覚していなかった。
私は事実上、逐次近似によって、もしかしたら閉じた解があるかもしれないものにたどり着いていた。出来の悪いテストをハックする訓練を、そうと知らずに少しずつほどいてきたのだ。学校を出たばかりの人が、この悪魔の名前を知り、「消え去れ」と唱えるだけで追い払うことはできるだろうか。試す価値はありそうだ。
この現象についてはっきりと語るだけでも、状況はおそらく良くなる。というのも、その力の多くは、私たちがそれを当たり前のこととして受け入れている点に由来するからだ。一度気づいてしまえば、部屋の中の象のように思えるが、かなり巧妙にカモフラージュされた象だ。この現象はあまりに古く、あまりに遍在している。そしてそれは単に放置された結果だ。誰もこうなることを意図したわけではない。学びと成績、競争、そしてハック不可能性についての素朴な思い込みを組み合わせたときに起きることにすぎない。
私が最も首をかしげてきた二つのこと――高校のインチキくささと、起業家たちに当たり前のことを理解させる難しさ――が同じ原因を持っていたと気づいたときは、目の覚める思いだった。これほど大きなピースが、これほど遅い段階でぴたりとはまることはめったにない。
たいていそうなると、さまざまな領域に影響が及ぶもので、今回も例外ではなさそうだ。たとえば、教育はもっと良くできるということ、そしてどう直せばいいかという示唆になる。だが同時に、すべての大企業が抱える問い――どうすればもっとスタートアップのようになれるか――への答えの可能性も示している。いまはそのすべてを追いかけるつもりはない。ここで焦点を当てたいのは、個人にとって何を意味するかということだ。
まず言えるのは、大学を卒業する野心的な若者の多くが、ぜひとも学びほぐしたい何かを抱えているということだ。だがそれは同時に、世界の見方をも変える。世の中のさまざまな仕事を、漠然と魅力的かどうかで眺める代わりに、ある具体的な問いを立てることで、興味深い形で仕分けができるようになる。この種の仕事では、出来の悪いテストをハックすることでどれだけ勝てるのか、という問いだ。
出来の悪いテストを素早く見分ける方法があれば役に立つ。何かパターンはあるだろうか。実はある。
テストは二種類に分けられる。権威によって課されるものと、そうでないものだ。権威によって課されないテストは、本来ハック不可能だ。なぜなら、誰もそれが実際に試している以上の何かを測っているなどと主張していないからだ。たとえばサッカーの試合は、どちらが勝ったかを試すだけのもので、どちらのチームが優れているかを試すものではない。解説者が試合後に「より良いチームが勝った」と言うことがあるのを見れば分かる。一方で、権威によって課されるテストは、たいてい何かの代理指標だ。授業のテストは、そのテスト自体の出来だけでなく、その授業でどれだけ学んだかを測ることになっているはずだ。権威によって課されないテストは本質的にハック不可能だが、権威によって課されるものは、ハック不可能に作らなければならない。たいていはそうなっていない。だから大まかに言えば、出来の悪いテストは権威によって課されるテストとほぼ同義だ。
出来の悪いテストをハックして勝つことを、むしろ好む人もいるかもしれない。たぶんそういう人もいるのだろう。だが賭けてもいいが、そういう仕事に就いている人の大半は、それを好きではない。ただ、ヒッピー的な職人としてドロップアウトでもしないかぎり、これが世の中の仕組みなのだと当たり前のこととして受け入れているだけだ。
多くの人は暗黙のうちに、出来の悪いテストがはびこる分野で働くことが、大金を稼ぐための代償だと考えているのではないか。だが、それは違うと断言できる。かつてはそうだった。二十世紀半ば、経済が寡占によって構成されていた頃は、頂点に立つ唯一の方法は彼らのゲームに乗ることだった。だが今は違う。良い仕事をして大金を稼ぐ道が存在し、それが人々が昔よりもはるかに金を稼ぐことに熱くなる理由の一部でもある。私が子どもの頃は、エンジニアになってクールなものを作るか、「エグゼクティブ」になって大金を稼ぐかのどちらかだった。今はクールなものを作って大金を稼ぐことができる。
仕事と権威の結びつきが弱まるにつれて、出来の悪いテストをハックすることの重要性は薄れつつある。その結びつきの浸食は、今起きている最も重要なトレンドの一つであり、人々が担うほぼすべての種類の仕事にその影響が表れている。スタートアップは最も目立つ例の一つだが、同じことは物書きの世界にも見られる。作家はもう出版社や編集者に頭を下げて読者に届けてもらう必要はない。自ら直接届けられるのだ。
この問いについて考えれば考えるほど、私は楽観的になる。何かが私たちをどれほど縛り付けていたかに、それが取り除かれるまで気づかない、という類の状況の一つに思えるからだ。そして、このインチキな建物全体が崩れ落ちる未来が見える。ますます多くの人が、自分は出来の悪いテストをハックして勝ちたいのかと自問し、そうではないと決断し始めたらどうなるかを想像してみてほしい。出来の悪いテストをハックして勝つ種類の仕事は人材を失い、良い仕事をして勝つ種類の仕事には最も野心的な人々が流れ込むだろう。そして出来の悪いテストをハックすることの重要性が縮むにつれて、教育も私たちをそう訓練することをやめるように進化するだろう。もしそれが起これば、世界がどんな姿になるか想像してみてほしい。
これは個人だけが学びほぐすべき教訓ではなく、社会全体が学びほぐすべき教訓だ。そしてそれを成し遂げたとき、解き放たれるエネルギーの大きさに私たちは驚くことになるだろう。
注記
[1] テストを学びの測定だけに使うなんて不可能なほど理想論に聞こえるとしても、それはすでにLambda Schoolで実現していることだ。Lambda Schoolには成績がない。卒業するかしないかだけだ。テストの唯一の目的は、カリキュラムの各段階で次に進めるかどうかを決めることにある。つまり学校全体が合否のみで成り立っている。
[2] 期末試験が教授との長い対話で構成されていたら、優れた中世史の本を読むことで準備できるだろう。学校のテストがこれほどハック可能な大きな理由は、同じテストを大人数に一斉に課さなければならないことにある。
[3] 学ぶことは、良い成績を取るための素朴なアルゴリズムだ。
[4] ハッキングには複数の意味がある。狭い意味では、何かを出し抜く、侵害することを指す。出来の悪いテストをハックするという場合のハックがこれだ。だがもう一つ、より広い意味があり、問題に対してしばしば違う角度から考えることで驚くような解決策を見つけることを指す。この意味でのハッキングは素晴らしいことだ。実際、出来の悪いテストに対して人々が使うハックの中には、驚くほど独創的なものもある。問題はハッキングそのものというより、テストがハック可能であるがゆえに、本来測るべきものを測れていないことにある。
[5] Y Combinatorでスタートアップを選ぶ人々は入試担当者に似ているが、違うのは、合否の基準が非常にタイトなフィードバックループによって鍛えられている点だ。もし悪いスタートアップを合格させたり良いスタートアップを落としたりすれば、たいてい一年か二年以内、しばしば一ヶ月以内にそれが分かる。
[6] 入試担当者たちは、合格するために求められているように見える通りに振る舞うこと以外に個性がないように見える子どもたちからの出願を読み飽きているに違いない。彼らが気づいていないのは、ある意味で彼らは鏡を見ているということだ。出願者の真正性の欠如は、出願プロセス自体の恣意性の反映なのだ。独裁者が周囲の人々の真正性のなさを嘆くのと同じことだ。
[7] 良い仕事というとき、道徳的に良いという意味ではない。優れた職人が良い仕事をするという意味での「良い」だ。
[8] どちらのカテゴリに入るか判断が難しい境界例もある。たとえば、ベンチャーキャピタルから資金を調達することは、大学入試のようなものだろうか、それとも顧客への販売のようなものだろうか。
[9] 良いテストとは単にハック不可能なテストのことだという点に注意してほしい。ここでいう「良い」は道徳的に良いという意味ではなく、うまく機能するという意味だ。出来の悪いテストがある分野と良いテストがある分野の違いは、前者が悪で後者が善だということではなく、前者がインチキで後者はそうでないということだ。だがこの二つの尺度は無関係ではない。Tara Ploughmanが言ったように、善から悪への道はインチキを通る。
[10] 最近の経済的不平等の拡大が税制の変化によるものだと考える人は、スタートアップでの経験がある者から見ればとてもナイーブに映る。今や富を得ているのは以前とは違う人々であり、彼らが得ている富は、税制で浮く程度の額では到底説明できないほど大きい。
[11] 教育熱心な親への一言。子どもに勝つための訓練をしているつもりでも、もし出来の悪いテストをハックして勝つように訓練しているのなら、親がしばしばそうであるように、あなたは前の戦争を戦うための訓練をしていることになる。
謝辞 Austen Allred、Trevor Blackwell、Patrick Collison、Jessica Livingston、Robert Morris、そしてHarj Taggarに草稿を読んでくれたことに感謝する。
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