同調の四象限
人を分類するうえで最も示唆に富む方法のひとつは、同調性の度合いと、その攻撃性によって分けることだ。横軸が左端の「慣習に従う」から右端の「独立して考える」まで、縦軸が下端の「受動的」から上端の「攻撃的」までを表すデカルト座標を想像してみてほしい。そこに生まれる四つの象限が、四つのタイプの人間を定義する。左上から反時計回りに、攻撃的・同調型、受動的・同調型、受動的・独立型、そして攻撃的・独立型である。
この四つのタイプはどの社会にも存在すると思う。そして人がどの象限に入るかは、その社会で支配的な信念よりも、本人の性格によって決まる。[1]
幼い子どもたちは、この二点のどちらについても最良の証拠を提供してくれる。小学校に通ったことがある人なら誰でも、この四つのタイプを見たことがあるはずだ。そして校則があれほど恣意的であるにもかかわらず四タイプが現れるという事実は、どの象限に入るかが規則そのものよりも本人の資質に左右されることを強く示している。
左上の象限、攻撃的・同調型の子どもたちは、いわゆる告げ口屋だ。彼らは規則は守られなければならないと信じているだけでなく、破った者は罰せられなければならないと信じている。
左下の象限、受動的・同調型の子どもたちは、羊だ。彼らは規則をきちんと守ろうとするが、他の子が規則を破ったとき、彼らが抱く衝動は、罰が確実に下るように仕向けることではなく、あの子が罰せられてしまうのではないかと心配することだ。
右下の象限、受動的・独立型の子どもたちは、夢見がちな子たちだ。彼らは規則をあまり気にかけず、おそらく規則が何なのかすら百パーセントは把握していない。
そして右上の象限、攻撃的・独立型の子どもたちは、いわゆる悪ガキだ。彼らは規則を見ると、まずそれを疑う。何かをしろと言われただけで、逆のことをしたくなるのだ。
もちろん、同調性を測るときには「何に対しての」同調なのかを明確にしなければならない。そしてそれは、子どもが成長するにつれて変化する。幼い子にとっては大人が定めた規則が対象だが、年長になるにつれて規則の源泉は仲間へと移る。だから、同じやり方で校則を破るティーンエイジャーの群れは、独立思考的とは言えない。むしろ逆だ。
大人になると、四つのタイプは四種の鳥を鳴き声で聞き分けるように、その特徴的な口癖で見分けられる。攻撃的・同調型の鳴き声は「〈敵〉を叩き潰せ!」だ。(変数の後に感嘆符が付くのを見るのはかなり不気味だが、それこそが攻撃的・同調型の問題の本質だ。)受動的・同調型の鳴き声は「ご近所にどう思われるかしら?」だ。受動的・独立型の鳴き声は「人それぞれだよね」であり、攻撃的・独立型の鳴き声は「それでも地球は動く(Eppur si muove)」である。
四つのタイプは均等に分布しているわけではない。攻撃的な人より受動的な人の方が多く、独立型より同調型の方がはるかに多い。したがって、最も人数が多いのは受動的・同調型であり、最も少ないのは攻撃的・独立型だ。
象限が規則の性質よりも性格に依存する以上、たとえまったく異なる社会で育ったとしても、ほとんどの人は同じ象限に収まるはずだ。
プリンストン大学のロバート・ジョージ教授は最近、こう書いている。
私はときどき学生たちに、もしあなたが奴隷制廃止前の南部に住む白人だったら、奴隷制についてどんな立場を取っていたと思うかと尋ねる。どうなると思う? みんな自分は奴隷廃止論者だったと言うのだ! みんな勇敢に奴隷制に反対の声を上げ、廃止のために粉骨砕身したはずだと言うのである。
彼は礼儀正しいので口にはしないが、もちろんそんなことはあり得ない。実際、私たちのデフォルトの想定は、彼の学生たちが平均的に当時の人々と同じように振る舞っただろうということだけにとどまるべきではない。今日攻撃的・同調型である学生たちは、当時もやはり攻撃的・同調型であっただろうと想定すべきなのだ。言い換えれば、彼らは奴隷制と戦わなかっただけでなく、その最も熱心な擁護者の一人になっていただろうということだ。
偏見があることは認めるが、私には、世界の厄介ごとの不釣り合いなほど多くは攻撃的・同調型の人々によって引き起こされているように思える。そして啓蒙主義以来私たちが発展させてきた多くの慣習は、彼らから他の私たちを守るために設計されてきた。とりわけ「異端」という概念を退役させ、たとえ現在受け入れがたいとされるものも含め、あらゆる種類の異なる考えを自由に議論し、試してみても罰せられないという原則に置き換えたことだ。[2]
では、なぜ独立思考型の人々は保護されなければならないのか。彼らがすべての新しいアイデアを担っているからだ。たとえば優れた科学者になるには、単に正しいだけでは足りない。誰もが間違っているときに正しくなければならないのだ。同調型の人間にはそれができない。同じ理由で、成功したスタートアップのCEOは、単に独立思考型であるだけでなく、攻撃的なまでにそうである。だから、社会が繁栄するのは同調型の人々をうまく抑え込む慣習を持っている場合に限られるというのは偶然ではない。[3]
この数年、私たちの多くは、自由な探究を守る慣習が弱まっていることに気づいている。過剰反応だと言う人もいる――それほど弱まってはいないとか、より大きな善のために弱まったのだと。後者については即座に片付けておこう。同調型の人々が優位に立つとき、彼らはいつも「より大きな善のためだ」と言う。ただ、その「より大きな善」が毎回異なり、互いに相容れないというだけのことだ。
前者の懸念、すなわち独立思考型の人々が過敏になりすぎていて、自由な探究はそれほど封じられていないという主張については、自分自身が独立思考型でなければ判断できない。どれだけ広大な思想空間が切り捨てられているかは、その思想を持っていなければわからない。そして周縁のアイデアを持っているのは独立思考型だけなのだ。まさにその理由で、彼らは思想をどれだけ自由に探究できるかの変化にきわめて敏感になる。彼らはこの炭鉱のカナリアなのだ。
同調型の人々は、いつものように、すべての考えの議論を封じたいわけではなく、悪い考えだけを封じたいのだと主張する。
その一文だけで、彼らがどれほど危険なゲームに手を出しているかが明らかだと思うかもしれないが、あえて説明しよう。私たちが「悪い」考えでさえ議論できなければならない理由は二つある。
第一に、どの考えを禁止するかを決めるプロセスは必ず間違いを犯すからだ。しかも、まともな知性を持つ者は誰もそんな仕事をやりたがらないため、結局その仕事は愚かな人々の手に渡る。そしてプロセスが多くの間違いを犯すときには、誤差の余地を残しておかなければならない。この場合、それは「禁止したいと思うよりも少ない数の考えだけを禁止する」ことを意味する。しかしそれは攻撃的・同調型の人々には難しい。ひとつには、彼らが子どもの頃からそうであったように、人々が罰せられるのを見るのを楽しむからであり、もうひとつには彼らが互いに競い合うからだ。正統性の執行者は、グレーゾーンの考えの存在を許容できない。なぜなら、それは他の執行者に道徳的純潔さの競争で自分を出し抜く機会を与え、下手をすれば執行の矛先を自分に向けさせることになるからだ。だから私たちは、必要とされる安全域を得るどころか、逆のものを得ることになる。少しでも禁止できそうな考えはすべて結局禁止されてしまう、底辺への競争だ。[4]
考えの議論を禁止することが危険な第二の理由は、考え同士は見かけよりもはるかに密接に関連しているということだ。つまり、あるトピックの議論を制限すれば、そのトピックだけに影響がとどまるわけではない。制約は、禁止されたトピックに何らかの含意を持つあらゆるトピックへと逆流していく。そしてこれは例外的なケースではない。むしろ最良の考えこそまさにそうなのだ。起源とは遠く離れた分野にまで波及するのだから。いくつかの考えが禁止された世界で思考することは、片隅に地雷原を抱えたピッチでサッカーをするようなものだ。単に形の違うピッチで同じゲームをするだけにはならない。安全な地面の上ですら、はるかに萎縮したゲームを強いられるのだ。
かつて独立思考型の人々が自らを守った方法は、少数の場所――最初は宮廷に、後に大学に――集まることだった。そこではある程度、自分たち自身のルールを作ることができたからだ。考えを扱う場所が自由な探究を守る慣習を持つのは、半導体工場が高性能のエアフィルターを持ち、録音スタジオが優れた防音設備を持つのと同じ理由だ。少なくともこの二世紀ほどの間、攻撃的・同調型の人々が何らかの理由で暴れ回ったとき、大学は最も安全な場所だった。
しかし今回は、その手が通用しないかもしれない。不幸なことに、最新の不寛容の波は大学から始まったからだ。それは1980年代半ばに始まり、2000年までには沈静化したかに見えたが、ソーシャルメディアの登場とともに再び燃え上がった。これは残念ながら、シリコンバレーによるオウンゴールだったように思える。シリコンバレーを動かしている人々のほとんどは独立思考型であるにもかかわらず、彼らは攻撃的・同調型の人々に、夢見ることしかできなかったような道具を手渡してしまったのだ。
一方で、大学における自由な探究の精神の衰退は、その原因であるのと同じくらい、独立思考型の人々が去ったことの症状なのかもしれない。50年前なら教授になっていたような人々には、今は別の選択肢がある。クオンツになることも、スタートアップを立ち上げることもできる。どちらで成功するにも、独立思考型でなければならない。もし彼らが教授になっていたら、学問の自由のためにもっと頑強な抵抗を示しただろう。だから、衰退する大学から独立思考型が逃げ出すという構図は、暗すぎるのかもしれない。むしろ、すでに多くの人が去ったからこそ大学は衰退しているのかもしれない。[5]
この状況について長い時間をかけて考えてきたが、どう展開するかを予測することはできない。一部の大学は現在の潮流を逆転させ、独立思考型の人々が集まりたいと思う場所であり続けることができるのだろうか。それとも独立思考型の人々は徐々に大学を見捨てていくのだろうか。もし後者になれば、私たちが何を失うことになるのか、非常に心配だ。
しかし長期的には、私は楽観している。独立思考型の人々は、自分たちを守るのがうまい。既存の制度が機能しなくなれば、彼らは新たな制度を作り出すだろう。それには想像力が必要かもしれない。しかし想像力は、何といっても彼らの得意分野なのだ。
註
[1] もちろん、人の性格が何らかの二つの次元でばらつくのなら、それを軸にして四象限を性格タイプと呼ぶことは可能だ。だから私が本当に主張しているのは、二つの軸が直交しており、どちらにも有意なばらつきがあるということだ。
[2] 世界の厄介ごとのすべてが攻撃的・同調型の人々の責任というわけではない。もう一つの大きな厄介ごとの源は、彼らに訴えかけることで権力を得るカリスマ的リーダーという存在だ。そうしたリーダーが現れると、彼らははるかに危険な存在になる。
[3] Y Combinatorを運営していたとき、私は同調型の人々の気分を害するようなことを書くことを心配したことはなかった。もしYCがクッキー会社だったら、難しい道徳的選択に直面していただろう。同調型の人々もクッキーを食べるからだ。しかし彼らは成功するスタートアップを立ち上げたりはしない。だから、もし彼らがYCへの応募をためらったとしても、効果は応募書類を読む手間が省けるということに尽きたのだ。
[4] 一つの分野では進歩があった。禁止された考えについて語ることへの罰は、過去に比べて軽くなっている。少なくとも豊かな国では、殺される危険はほとんどない。攻撃的・同調型の人々は、たいてい人を解雇に追い込むことで満足するのだ。
[5] 多くの教授は独立思考型だ――とりわけ数学、理系のハードサイエンス、工学の分野では、そうでなければ成功できない。しかし学生はより一般的な人口構成を反映しており、したがって大半は同調型だ。だから教授と学生が対立するとき、それは単なる世代間の対立ではなく、異なるタイプの人々の間の対立でもあるのだ。
謝辞 Sam Altman、Trevor Blackwell、Nicholas Christakis、Patrick Collison、Sam Gichuru、Jessica Livingston、Patrick McKenzie、Geoff Ralston、そしてHarj Taggarの各氏に、本稿の草稿を読んでくれたことに感謝する。
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