The Best Essay

Paul Graham

最高のエッセイ

タイトルとは裏腹に、この文章が「最高のエッセイ」になろうとしているわけではありません。ここで私が考えたいのは、最高のエッセイとはいったいどのようなものかということです。

もちろん文章は巧みである必要があります。ただ、どんなテーマについてもうまく書くことはできます。このエッセイを特別なものにするかどうかを決めるのは、何について書かれているかです。

当然、テーマによって優劣はあります。今年の口紅の流行色について書かれたものが最高になることは、おそらくないでしょう。かといって、高尚なテーマについて掴みどころのない気体のような話をするものでもありません。良いエッセイは人を驚かせなければなりません。まだ知られていないことを伝えなければならないのです。

最高のエッセイとは、人を驚かせられるテーマの中で、最も重要なものについて書かれたものになるはずです。

当たり前に聞こえるかもしれませんが、この考え方には意外な帰結があります。その一つは、科学がまるで小舟に象が乗り込むかのように唐突に現れることです。たとえばダーウィンは1844年に書いたエッセイの中で、自然選択の考えを初めて記しました。人を驚かせられる重要なテーマという点で、これ以上の例はないでしょう。もしそれが優れたエッセイの条件だとすれば、1844年に書かれた最高のエッセイは間違いなくそれだったはずです。そして実際、どの時代においても、考えうる最高のエッセイとは、その時点で可能な最も重要な科学的・技術的発見を記したものになることが多いのです。[1]

もう一つの意外な帰結があります。私は書き始めたとき、最高のエッセイはかなり普遍的なものになるだろうと想像していました。1844年に書ける最高のエッセイも、今書ける最高のエッセイも、ほとんど同じようなものになるはずだと。しかし実際には、どうやら正反対のようです。最高の絵画であれば、そういう意味で普遍的であることはあり得るかもしれません。しかし今さら自然選択を紹介するエッセイを書いても、誰も驚きはしないでしょう。における最高のエッセイとは、私たちがまだ知らない偉大な発見について記したものになるはずです。

もし「最高のエッセイをどう書くか」という問いが、「いかにして偉大な発見をなすか」という問いに帰着してしまうのであれば、私は問いの立て方を間違えたことになります。この試みが示しているのは、エッセイを書くのに時間を費やすのではなく、特定の分野で発見をすることに集中すべきだということなのかもしれません。ただ、私はエッセイというもの、そしてエッセイで何ができるのかに興味があります。ですから、ほかに立てられる問いはなかったか考えてみたいと思います。

別の問いはあります。一見すると、最初に立てた問いとほとんど同じように見えます。最高のエッセイとは何かと問う代わりに、どうすればエッセイをうまく書けるのかと問うべきだったのです。言い回しの違いだけに見えますが、答えは大きく分かれます。先ほど見たように、最初の問いへの答えは、実はエッセイの書き方とはあまり関係がありませんでした。二つ目の問いは、答えをエッセイの書き方へと強制的に引き戻します。

エッセイを書くという行為は、うまくやれば、アイデアを発見する一つの方法になります。では、それをどうすればうまくできるのでしょうか。書くことによって、どのように発見するのでしょうか。

エッセイは通常、私が「問い」と呼ぶものから始まるのが自然です。ただし、これはとても広い意味で使っています。文法的に疑問文である必要はありません。何らかの反応を引き起こすという意味で、問いのように働くものであればよいのです。

では、その最初の問いはどうやって得ればよいのでしょうか。もっともらしく聞こえる重要なテーマを適当に選んで取り組んでも、うまくいくことはまずないでしょう。プロのトレーダーは、自分が優位性(edge)を持っていない限り取引をしません。特定の種類の取引で、なぜ自分が負けるより勝つことが多いのかを納得できる形で説明できる場合にだけ取引するのです。同じように、テーマに取り組む場合も、切り口がなければなりません。そのテーマについての新しい洞察や、新しいアプローチの仕方が必要なのです。

完全な主張を持っている必要はありません。探求できる何らかの隙間があればよいのです。実際、他人が当たり前だと思っていることに対して疑問を持つだけで、それが十分な優位性になることもあります。

十分に不可解な問いに出会ったら、それが一見大したことではないように見えても、掘り下げる価値はあります。多くの重要な発見は、当初は取るに足らないと思われた糸を引っ張ることから生まれています。どうして全部がフィンチなんだ? [2]

問いが手に入ったら、次はどうするのでしょうか。声に出して考えるように、その問いについて考え始めます。文字どおり声に出すわけではありませんが、誰かに話しかけるように、特定の言葉の並びとして答えを確定させるのです。最初の答えは、たいてい間違っていたり不完全だったりします。書くという行為は、アイデアを「曖昧」な状態から「出来の悪い」状態へと変換します。しかし、それは前進です。どこが壊れているのかが見えれば、直すことができるからです。

初心者の書き手は、間違ったものや不完全なものから始めることに不安を覚えるかもしれません。しかし、そう不安がる必要はありません。なぜなら、そこにこそエッセイを書くことの効用があるからです。特定の言葉の並びに自分をコミットさせることで、出発点が生まれます。もしそれが間違っていれば、読み返したときに気づくはずです。エッセイを書く作業の少なくとも半分は、自分が書いたものを読み返し、これは正しく、十分だろうかと問い直すことです。読み返すときは非常に厳しくなければなりません。自分に正直であり続けるためだけではなく、自分の答えと真実との間にあるズレが、しばしば新しいアイデアが見つかる兆しだからです。

自分が書いたものに対して厳しくなることのご褒美は、単なる洗練だけではありません。おおむね正しい答えを、完全に正しくしようとすると、どうしてもそうできないことに気づくことがあります。その理由は、自分が誤った前提に依存していたからだとわかります。そしてその前提を捨てたとき、答えはまったく別のものになっているのです。[3]

理想的には、問いに対する答えは二つの役割を果たします。真実へと収束していく過程の第一歩であること、そして(私の広い意味での)さらなる問いを生み出す源になることです。そうして、答えがさらなる答えを呼び、過程は再帰的に続いていきます。[4]

一つの問いに対しては、通常いくつかの答えの候補があります。つまり、あなたは木構造をたどっていることになります。しかしエッセイは樹形ではなく線形ですから、分岐点ごとに一つの枝を選んで進まなければなりません。どうやって選べばよいのでしょうか。通常は、一般性と新規性の組み合わせが最も大きいものに従うのがよいでしょう。私は意識的に枝に順位をつけているわけではありません。単に最も面白そうな方についていくだけです。ただ、その面白さを作っているのが、一般性と新規性なのです。[5]

大幅な書き直しをいとわなければ、最初から正しく選ぶ必要はありません。一つの枝をたどって結果を見て、十分でなければ切り落として引き返せばよいのです。私はこれをいつもやっています。このエッセイでも、すでに17段落に及ぶサブツリーを一つ切り落としましたし、それ以外にも数え切れないほど短い枝を切っています。もしかしたら最後にまたつなぎ直すかもしれませんし、脚注に要約したり、別のエッセイとして独立させたりするかもしれません。どうなるかはこれからです。[6]

一般に、切る決断は素早くするのがよいでしょう。書くこと(そしてソフトウェアや絵画でも)における最も危険な誘惑の一つは、正しくないものを、ほんの少し良い部分が含まれているから、あるいは多くの労力をかけたからという理由だけで残してしまうことです。

ここで新たに生まれてくる問いの中で最も意外なものは、そもそも最初の問いは本当に重要なのかというものです。もしアイデアの空間が高度に連結しているなら、最初の問いは重要ではないはずです。なぜなら、どんな問いからでも、数回のホップで最も価値のある問いへたどり着けるはずだからです。そして、たとえば何かの話題に取り憑かれた人が、どんな会話でもその話題へ持っていってしまうことからも、アイデアの空間が高度に連結している証拠が見て取れます。しかし、それが機能するのは行きたい場所がわかっている場合だけです。エッセイではそうはいきません。それがまさに要点なのです。取り憑かれた話し手のようにはなりたくないはずです。さもなければ、すべてのエッセイが同じことについてのものになってしまいます。[7]

最初の問いが重要であるもう一つの理由は、人はたいてい最初の問いに沿おうとする義務感を覚えるからです。どの枝をたどるかを決めるとき、私はこのことを意識しません。ただ新規性と一般性を追うだけです。問いから外れないようにすることは、後になって、あまりに遠くまで来すぎたと気づいて引き返すときに強制されるのです。しかし、これが最適なやり方だと思います。新規性と一般性を追う過程を、その場で制約したくはないはずです。流れに身を任せ、何が得られるか見てみるのがよいのです。[8]

最初の問いはあなたを制約するのですから、最良の場合でも、それが書くエッセイの質の上限を決めることになります。最初の問いから続く思考の連鎖を、できる限りうまくたどったとすれば、ばらつきが生じる余地があるのは最初の問い自体だけだからです。

だからといって、これを理由に慎重になりすぎるのは間違いです。問いがどこへ連れていってくれるかは予測できないからです。正しくやっていれば予測できないはずです。正しくやるということは発見をすることであり、発見とは定義上、予測できないものだからです。ですから、この状況への対処法は、最初の問いを慎重に選ぶことではなく、たくさんのエッセイを書くことです。エッセイとはリスクを取るためのものなのです。

ほとんどどんな問いからでも、良いエッセイは生まれます。実際、第3段落で十分に有望でないテーマの例を考えるのには少し苦労しました。なぜなら、最高のエッセイはxについてではあり得ないと聞けば、どんなエッセイストもまず「ではxについて書いてみよう」と思うものだからです。しかし、多くの問いが良いエッセイを生むとしても、偉大なエッセイを生むのはそのうちの一部にすぎません。

どの問いが偉大なエッセイを生むかを予測できるでしょうか。私がこれだけ長くエッセイを書いてきたことを考えると、この問いがこれほど新鮮に感じられるのは驚くべきことです。

私が最初の問いに求めるものの一つは、突飛さです。どこか行儀の悪さを感じさせる問いが好きなのです。たとえば直観に反していたり、野心的すぎたり、異端的に見えたりする問いです。理想を言えば、その三つすべてを兼ね備えていることです。このエッセイ自体がその一例です。最高のエッセイについて書くことは、そんなものが存在するという前提を含んでいます。エセ知識人はそれを単純化しすぎだと一蹴するでしょう。しかし、あるエッセイが別のエッセイより良いという可能性があれば、最高のものが存在することは論理的に当然の帰結です。そして、これほど野心的なことをどうやって成し遂げるかを考えることは、実際にそれを成し遂げることに十分近いため、注意を引きつけ続けます。

私は目にいたずらっぽい光を宿してエッセイを書き始めるのが好きです。これは単なる私の好みかもしれませんが、一つだけ好みでは済まされない側面があります。あるテーマについて本当に良いエッセイを書くためには、そのテーマに興味がなければなりません。優れた書き手ならどんなことでもうまく書けますが、エッセイの存在理由である新規な洞察へ手を伸ばすためには、そのテーマを大切に思っている必要があるのです。

もしそのテーマを大切に思うことが、良い最初の問いの条件の一つであるなら、最適な問いは人によって異なります。そしてそれは、さまざまなことに関心を持っている人ほど、偉大なエッセイを書ける可能性が高いことも意味します。好奇心が強ければ強いほど、自分が好奇心を抱くものの集合と、偉大なエッセイを生むテーマの集合とが重なる確率は高くなります。

偉大な最初の問いには、ほかにどのような資質があるでしょうか。おそらく、多くの異なる分野に影響を及ぼすものであればよいのでしょう。また、人々がすでに徹底的に探求し尽くされたと思っているような問いであれば、それは良い兆候だと私は感じます。しかし正直なところ、私は最初の問いをどう選ぶかについて、ほとんど考えたことがありません。そもそも選ぶことがめったにないからです。何について書くかを選ぶことはめったになく、ただ何かについて考え始め、ときどきそれがエッセイになるだけなのです。

これからは、たまたま考えていることについてエッセイを書くのをやめて、体系的に生成されたトピックのリストを順にこなしていくべきなのでしょうか。あまり楽しそうには聞こえません。それでも私は良いエッセイを書きたいと思っていますし、最初の問いが重要であるなら、気にかけるべきはずです。

おそらく答えは、もう一歩手前に遡ることです。頭に浮かんだことについて書くのはそのままに、ただ頭に浮かぶもの自体が良いものになるように努めるのです。よく考えてみれば、これが答えに違いありません。なぜなら、どのトピックについても優位性を持っていなければ、トピックのリストだけあっても何の役にも立たないからです。エッセイを書き始めるには、テーマに加えて、それについての最初の洞察が必要です。そしてそれらを体系的に生成することはできません。できればよいのですが。[9]

ただ、そうした洞察がより多く浮かぶように仕向けることは、おそらく可能です。頭から出てくるアイデアの質は、何を頭に入れるかにかかっています。そしてそれは、幅と深さという二つの次元で改善できます。

すべてを学ぶことはできませんから、幅を得るということは、互いに大きく異なるテーマについて学ぶことを意味します。ヘイへの本の買い出しの旅について人に話し、どんな本を買うのかと聞かれると、私はたいてい少し気恥ずかしくなります。テーマが互いに関係のない項目の寄せ集めのように思えるからです。しかし、この仕事においては、それが実は最適なのかもしれません。

アイデアは、人と話すこと、何かを作ったり実践したりすること、どこかへ行って何かを見ることからも得られます。新しい人と話すこと自体が重要なのではなく、新しいアイデアを抱かせてくれるような人と話すことが重要なのだと思います。私は、20人の新しい賢い人と話すよりも、ロバート・モリスと午後いっぱい話した後の方が、多くの新しいアイデアを得られます。それがわかるのは、Y Combinatorでのオフィスアワーの一コマがまさにそういうものだからです。

幅が読むこと、話すこと、見ることから得られるのに対し、深さは実践することから得られます。ある分野について本当に学ぶ方法は、その分野で問題を解かなければならない状況に身を置くことです。それが書くという形をとることもありますが、良いエッセイストになるためには、ほかの何らかの仕事もしたり、してきたりする必要があるのではないかと思います。これはほかの多くの分野には当てはまらないかもしれませんが、エッセイを書くことは別です。たとえ半分の時間を別の仕事に費やしたとしても、それが困難な仕事である限り、差し引きでプラスになることもあり得ます。

これは処方箋として提案しているというより、すでにそうしている人への励ましとして言っているのです。これまでの人生をほかのことに費やしてきたのだとすれば、あなたはすでに半分まで来ています。もちろん、書くことがうまくなるためには書くことを好きでなければなりませんし、好きであれば、これまでにもある程度の時間は書くことに費やしてきたはずです。

最初の問いについて述べてきたことはすべて、エッセイを書く過程で出会う問いにも当てはまります。それらは同じものだからです。エッセイのあらゆるサブツリーは、たいていそれ自体がより短いエッセイであり、それはカルダーのモビールのどのサブツリーも、より小さなモビールであるのと同じです。ですから、良い最初の問いを得るためのどんな手法も、良いエッセイ全体を得るための手法にもなるのです。

やがて、問いと答えのサイクルは、自然な終わりのように感じられる地点に達します。これは少し疑わしくもあります。すべての答えはさらなる問いを示唆するはずではないのか、と。私が思うに、人は満腹感を覚え始めるのです。十分に興味深い領域をカバーすると、新しい問いへの食欲を失い始めます。それはむしろ好都合です。読者の方も同じように満腹を感じているはずだからです。そして、問いを立てるのをやめることは怠惰ではありません。代わりに、次のエッセイの最初の問いを立て始められるのですから。

これが、アイデアの連結性に対する究極的な抵抗の源です。途中で発見をすればするほど、問いAから出発して問いBにたどり着くことはなくなります。ただ、エッセイを書き続ければ、そうした発見を燃やし尽くすことで、この問題は徐々に解消されていきます。ですから奇妙なことに、たくさんのエッセイを書くことで、アイデアの空間がより高度に連結しているかのような状態になるのです。

サブツリーが終わりに達したとき、できることは二つあります。そのまま終えるか、あるいは以前に飛ばした問いに戻ることで、別々のサブツリーを端と端でつなぎ合わせるというキュビスム的なトリックを使うかです。通常、この地点でエッセイを途切れなく流すには多少の手品が必要になりますが、今回はそうではありません。今回は実際にその現象の例が必要なのです。たとえば私たちは先ほど、考えうる最高のエッセイは、最高の絵画のような意味では通常普遍的ではないということを発見しました。これはさらに掘り下げる価値があるほど意外なことに思えます。

エッセイが「普遍的」であるということには、二つの意味があります。永続的に重要な事柄について書かれていることと、読者に常に同じ効果を与えることです。芸術においては、この二つの意味は溶け合います。古代ギリシャ人にとって美しく見えた芸術は、今の私たちにとっても美しく見えます。しかしエッセイにおいては、この二つの意味は乖離します。エッセイは教えるものだからです。そして、すでに知っていることを人に教えることはできません。自然選択が永続的に重要なテーマであることは確かですが、それを説明するエッセイが、私たちに与える効果は、ダーウィンの同時代の人々に与えた効果と同じではあり得ません。まさに彼のアイデアが大成功を収め、誰もがすでに知っているからです。[10]

私はこれを書き始めたとき、考えうる最高のエッセイは、より厳密な意味で、常緑樹のように普遍的であるだろうと想像していました。アリストテレスにもファインマンにも等しく響く、何か深遠で普遍的な知恵を含むものだと。しかし、それはどうやら正しくないようです。では、もし考えうる最高のエッセイが通常そのような厳密な意味で普遍的ではないのだとすれば、普遍的なエッセイを書くには何が必要なのでしょうか。

その答えは、とても奇妙なものになります。常緑樹のような普遍性を得るためには、エッセイは無力でなければならないのです。その発見が私たちの共有文化に吸収されないという意味で。そうでなければ、二世代目の読者にとって新しいものは何も残らなくなるからです。今だけでなく未来の読者をも驚かせたいのであれば、定着しないエッセイを書かなければなりません。どれほど優れていても、未来の人々が読む前にすでに学んでしまうようなものにはならないエッセイです。[11]

そのための方法はいくつか考えられます。一つは、人々が決して学ばないようなことについて書くことです。たとえば、野心的な人々がさまざまな種類の賞を追い求め、後になって、ときには手遅れになってから、そのうちのいくつかが思ったほどの価値がなかったことに気づくというのは、昔から確立されたパターンです。そのことについて書けば、未来の読者がベルトコンベアのように次々と現れ、驚いてくれることを確信できます。

未経験の人が物事をやりすぎてしまう傾向について書く場合も同様です。たとえば若いエンジニアが必要以上に複雑な解決策を作ってしまうことなどです。実際に犯してみなければ避け方を学べない種類の間違いがあります。そうしたもののいずれも、普遍的なテーマになるはずです。

私たちが物事をなかなか理解できないのは、鈍かったり現実を否認していたりするからだけではなく、意図的に嘘をつかれてきたからでもあります。大人が子どもに嘘をつくことはたくさんあります。そして大人になっても、誰もあなたを脇に呼び止めて嘘のリストを手渡してはくれません。彼らは自分がどんな嘘をついたか覚えていないし、そもそも嘘の多くは暗黙のものだからです。ですから、そうした嘘に異を唱えることは、大人が嘘をつき続ける限り、驚きの源泉であり続けるでしょう。

嘘をつくのがシステムであることもあります。たとえば、ほとんどの国の教育制度は、テストをハックすることで勝つようにあなたを訓練します。しかし、現実世界で最も重要なテストに勝つ方法はそうではありません。そして何十年にもわたる訓練の後では、現実世界に新たに参入した人々がこのことを理解するのは困難です。そうした制度的な嘘を乗り越える手助けをすることは、制度が壊れたままでいる限り有効であり続けるでしょう。[12]

普遍性を得るためのもう一つの方法は、読者がすでに知っていることについて、文化的に伝達され得る以上の詳細さで書くことです。たとえば、「子どもを持つことは報われることだ」と誰もが知っています。しかし、実際に子どもを持つまでは、それが具体的にどのような形をとるのか正確にはわかりませんし、持った後でさえ、自分が知っていることの多くを言葉にしたことがないかもしれません。

私はこれらの種類のテーマすべてについて書いてきました。しかし、より厳密な意味で普遍的なエッセイを書こうと意図してそうしたわけではありません。実際、そうした普遍性が自分のアイデアが定着しないことに依存しているとすれば、意図的に目指す価値はないように思えます。永続的に重要なテーマについて書くべきであることは確かです。しかし、あまりに見事にやってのけたために、あなたの結論が定着し、未来の世代があなたのエッセイを斬新ではなく当たり前だと感じるようになったとしたら、それはむしろ喜ばしいことです。あなたはダーウィンの領域に足を踏み入れたのです。

ただ、永続的に重要なテーマについて書くことは、さらに一般的なことの一例にすぎません。すなわち、適用範囲の広さです。そして広さには、時間的なもの以外にも、たとえば多くの異なる分野に適用できるといった種類があります。ですから、広さこそが究極の目的だと言えます。

私はすでにそれを目指しています。広さと新規性は、私が常に追い求めている二つのものです。ただ、普遍性がどこに位置づけられるのか理解できてよかったと思います。

今では、多くのことがどこに収まるのか、よりよく理解できました。このエッセイは、エッセイを書くことについてのツアーのようなものになりました。出発点では、テーマについての助言を得たいと思っていました。文章がうまいことを前提にすれば、最高のエッセイを分かつものはテーマしか残らないからです。そして実際にテーマについての助言は得られました。自然選択を発見しなさい、と。ええ、できればそうしたいものです。しかし一歩引いて、そうした偉大な発見をする以外で自分にできる最善は何かと問うと、答えは手順に関するものになります。結局のところ、エッセイの質は、その中で発見されたアイデアの関数であり、それを得る方法は、問いに対して広く網を張り、答えに対しては非常に厳密であることです。

このエッセイ執筆の地図で最も印象的な特徴は、インスピレーションと努力が縞模様のように交互に現れることです。問いはインスピレーションに依存しますが、答えはひたすら粘り強く取り組むことで得られます。最初から正しい答えを得る必要はありません。ただ、最終的に正しくできない言い訳はありません。できるまで何度でも書き直せばよいのですから。そしてこれは単なる理論上の可能性ではありません。私自身の仕事のやり方をかなり正確に表しています。今この瞬間も、私は書き直しているところです。

偉大なエッセイを書くことが主に努力にかかっていると言えればよいのですが、極限において違いを生むのはインスピレーションです。極限においては、問いの方が得るのが難しいのです。その泉には底がありません。

どうすればより多くの問いを得られるのか。それこそが、すべての問いの中で最も重要な問いです。

脚注

[1] この結論には、こうした発見の中にはごく少数の読者にしか理解できないものがあるという理由で抵抗を感じる人もいるかもしれません。しかし、この理由でエッセイを失格にしようとすると、あらゆる困難が生じます。どこで線引きすべきかをどう決めるのでしょうか。もしウイルスがロスアラモスに隔離された一握りの人々を除いて全員を死に至らしめたら、かつて失格とされたエッセイが今度は対象になるのでしょうか。等々。

ダーウィンの1844年のエッセイは、1839年に書かれた初期バージョンに基づくものでした。その抜粋は1858年に出版されました。

[2] なぜか些細に見える問いに対して強い好奇心を覚えたら、それは喜ばしい兆候です。進化は、重要なことに注意を向けるように私たちを設計してきました。ですから、ランダムに見える何かにとても好奇心をそそられるとき、それはそれが思ったほどランダムではないことに無意識に気づいているのかもしれません。

[3] 系として言えることがあります。もし知的に正直でなければ、あなたの文章は偏るだけでなく、退屈なものにもなります。真実を追求すれば発見できたはずのあらゆるアイデアを見逃してしまうからです。

[4] この過程は、書き始める前に始まっていることもあります。言いたいことの最初のいくつかが、すでにわかっていることもあるのです。学校では、子どもたちはしばしば、言いたいことのすべてを決め、エッセイ自体を書き始める前にそれをアウトラインとして書き出すべきだと教えられます。それが書き始めのきっかけとして良い方法なのかどうかは、私にはわかりません。しかし、少なくともそれはエッセイを書く精神とは正反対です。アウトラインが詳細であればあるほど、エッセイ本来の目的である発見から、あなたのアイデアが得られる恩恵は少なくなります。

[5] この種の「貪欲」アルゴリズムの問題は、局所的な最大値にたどり着いてしまう可能性があることです。もし最も価値のある問いの前に退屈な問いがあったら、あなたはそれを見逃してしまうでしょう。しかし、これより良い戦略は私には思いつきません。書くこと以外に先読みの方法はないのです。ですから、貪欲なアルゴリズムと、たっぷりの時間を使ってください。

[6] 結局、私は17段落のうち最初の5段落をつなぎ直し、残りは破棄しました。

[7] スティーヴン・フライは、オックスフォードでの試験でこの現象を利用していたことを告白しています。彼は、ある一般的な文学的テーマについての定番のエッセイを頭の中に用意しており、試験問題をその方向へねじ曲げては、同じエッセイを再現していたのです。

厳密に言えば、高度に連結しているのはアイデアの「空間」ではなく「グラフ」ですが、そのように言うとグラフ理論を知らない人を混乱させてしまいます。一方、グラフ理論を知っている人なら、私が「空間」と言っても意図を理解してくれるでしょう。

[8] 「遠くへ行きすぎた」かどうかは、元のテーマからの距離だけで決まるわけではありません。むしろ、その距離を、サブツリーの中で発見したものの価値で割ったようなものです。

[9] あるいは、できるのでしょうか。このことについて書いてみるべきかもしれません。成功する可能性が小さくても、期待値はとてつもなく大きいのですから。

[10] 20世紀には、芸術の目的もまた教えることにあると言うのが流行しました。一部の芸術家は、自分の目的は良いものを作ることではなく、芸術についての私たちの先入観に挑戦することだと説明して、作品を正当化しようとしました。公平を期して言えば、芸術もある程度は教えることができます。古代ギリシャの写実的な彫刻は新しいアイデアを体現しており、その点で同時代の人々にとっては格別に刺激的だったに違いありません。しかし、それらは今の私たちから見ても依然として素晴らしく見えます。

[11] バートランド・ラッセルは、20世紀初頭に「試験結婚」についての考えで大きな論争を巻き起こしました。しかし今読むと退屈です。なぜなら彼の考えが勝利したからです。「試験結婚」とは、私たちが「交際」と呼んでいるものだからです。

[12] もし10年前に私に尋ねていたら、学校は今後何世紀にもわたってテストのハックを教え続けるだろうと答えたはずです。しかし今では、生徒たちがまもなくAIによって個別に教えられ、試験が継続的で目に見えないマイクロアセスメントに置き換えられるという未来が、十分にあり得るように思えます。

草稿を読んでくれたサム・アルトマン、トレヴァー・ブラックウェル、ジェシカ・リヴィングストン、ロバート・モリス、コートニー・ピプキン、ハージ・タガーに感謝します。

原文は Paul Graham により に公開されました。

この記事は「muse-spark-1.2-contributor」を使用して翻訳されました。