異星人の真理
宇宙のどこかに知的生命体がいるとすれば、彼らは私たちといくつかの真理を共有しているはずだ。数学の真理は同じだろう。定義上真なのだから。物理の真理も同様だ。炭素原子の質量は、彼らの惑星でも同じはずだ。だが私は、数学や物理の真理以外にも、異星人と共有できる真理があると考えている。そしてそれが何なのかを考えることには意味がある。
例えば、ある仮説を統制された実験で検証すれば、その分だけ仮説への確信を強めてよいという原則は、異星人とも共有できるだろう。練習すれば上達するということも、異星人にも当てはまる可能性は高い。おそらくオッカムの剃刀も共有しているはずだ。これらの考えに、人間特有といえるものは何もないように思える。
もちろん推測するしかない。知的生命体がどんな形態を取りうるかを確実に言うことはできない。興味深い問いではあるが、ここでそれを探求しようというわけでもない。異星人の真理という考えの要点は、知的生命体の形態について推測する手がかりを与えてくれることにあるのではない。真理に対する閾値、より正確に言えば、目指すべき的を与えてくれることにある。数学や物理の真理に次いで最も普遍的な真理を探そうとするなら、それは他の知的生命体と共有できるものになるはずだ。
異星人の真理という考え方は、ヒューリスティックとして使うなら、寛大な方に寄せておくのが最もうまく機能する。ある考えがもっともらしく異星人に関わりうるなら、それで十分だ。例えば正義という概念。すべての知的生命体が正義の概念を理解するとは断言できないが、理解しないとも断言できない。
異星人の真理という考えは、エルデシュの言う「神の本」の考えと関係している。彼はとりわけ優れた証明を「神の本にある」と表現した。その含意は、(a)十分に優れた証明は発明されるというより発見されるものであり、(b)その良さは普遍的に認められる、というものだ。もし異星人の真理というものがあるなら、神の本には数学以上のものが収められていることになる。
では、異星人の真理の探求を何と呼ぶべきだろうか。最も自然な答えは「哲学」だ。哲学が他に何を含むにせよ、これを含むべきだろう。アリストテレスもそう考えたはずだ。異星人の真理の探求は、哲学の正確な記述についてのものではないにしても、哲学の良い定義としてのものだという主張すら成り立つ。つまり、自らを哲学者と呼ぶ人々が、現にそうしているかどうかに関わらず、本来なすべきことだという意味だ。ただ、私はその呼び方にこだわっているわけではない。何と呼ぶかではなく、実際に行うことが重要だ。
私たちはやがて、AIというかたちで、異星の生命に近いものを身近に持つようになるかもしれない。そしてそれによって、知的存在が私たちと共有せざるを得ない真理が何なのかを、正確に知ることができるようになるかもしれない。例えば、オッカムの剃刀を用いないものを知的と見なすことは不可能だと分かるかもしれない。いつかはそれを証明できるようになるかもしれない。だが、そうした研究は非常に興味深いとはいえ、私たちの目的にとって必要なものではないし、そもそも同じ分野ですらない。哲学をそう呼ぶとすれば、その目標は、異星人の真理を的としてどんなアイデアを思いつけるかを見ることであり、その閾値が正確にどこにあるかを述べることではない。この二つの問いは、いつか収束するかもしれないが、まったく異なる方向から近づいて収束するだろう。そして収束するまでは、異星人の真理だと確信できることだけを考えるように自らを縛るのは、あまりに制約が大きすぎる。とりわけ、最良の推測が驚くほど最適に近いことが判明する分野である可能性が高いのだから。(これがそうなるか、見てみよう。)
何と呼ぶにせよ、異星人の真理を発見しようとする試みは、取り組むに値するものだ。そして奇妙なことに、それ自体がおそらく異星人の真理なのだ。
謝辞 Trevor Blackwell、Greg Brockman、Patrick Collison、Robert Morris、Michael Nielsenの各氏に、本稿の草稿を読んでいただいたことに感謝する。
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