子どもを持つことは、想像していたよりずっと楽で、ずっと素晴らしかった
原文は Nat Eliason により に公開されました。 このブログを購読する

この記事を書き始めたのは2022年、第一子である長女が生まれて3ヶ月が経った頃だった。
数段落書いたところで、気が早すぎると思った。最初の数ヶ月は楽だっただけかもしれないし、「そのうち分かるよ」と言い続けてきた人たちが、結局は正しかったのかもしれない。
そこでこの原稿は比喩的な引き出しにしまい、また後で続きを書くことにした。
そして次女が生まれ、2人の親になって数ヶ月が経つと、またこの記事を書きたいという衝動が戻ってきた。でも親になってまだ2年しか経っていない。今日では2人でも平均よりは多いとはいえ、何かを語れるほどの十分な「経験数」とは言えない気がした。
また引き出しに戻した。
3ヶ月前、三女が生まれた。長女はもうすぐ4歳、次女は2歳、そして僕はまた、この文章を書きたくてうずうずしている。
その間に、そう感じているのは自分だけではないと気づいた。友人たちからひそかな囁きやメッセージがぽつぽつと届くのだ。「なんでみんな、こんなに大変だって言ってたんだろう?」と。子どもを持つことの向こう側にある喜びに満ちた現実に対して、僕や他の多くの人が予想もしていなかった、一種の罪悪感さえ滲ませながら。
だから、もう書くべき時だと思う。4歳未満の子どもが3人いれば、これは想像していたよりずっと楽で、ずっと素晴らしいと自信を持って言えるだけの経験は十分にある。
もし子どもを持つかどうか迷っていたり、先延ばしにしていたりするなら、文句ばかり言う人たちの声は無視することを強く勧めたい。不安を煽る言葉も無視していい。思っているより、ずっといいものかもしれないのだから。
分かっている苦労、想像できない喜び
数年前、僕は「Known Costs, Unknowable Benefits」という記事を書いた。人生で最高の部分がいかに隠されているか、ということについてだ。
人生で起こせる最良の変化の多くは、身に染みて分かるようなコストの向こう側にある。だがその先にある見返りは、まだ理解できない種類の喜びなのだ。
走る習慣を身につけたことがなければ、走ることの高揚感は理解できない。でも、体を追い込む辛さや、スケジュールに何かをねじ込む不安は想像できる。走り始める前、あるいは何らかの運動を始める前は、割に合わない取引に思える。でも実際に始めてみると、どれだけ気分が良くなるかに気づき、「ああ、こういうことか」と腑に落ちるのだ。
これが最も当てはまるのが、子どもを持つということだ。
子どもを持つ前は、夜中に何度も起こされることを容易に想像できる。交友関係をセーブしなければならないこと。気軽に旅行できなくなること。お金がかかること。コストは目に見えていて、想像するだけでも辛い。
でも想像できないのは、赤ちゃんが初めて自分に微笑んでくれる瞬間だ。「ママ」や「パパ」と口にしたとき。ハイハイを始めて、リビングで犬を追いかけ回したくなったとき。あるいは朝7時にジムから帰ってきたら、薄暗いキッチンで幼い子がカウンターに座り、おもちゃの包丁で自分用に桃を切っているのを見つけたときの誇らしさだ。
想像できる困難でさえ、予想できないもう一つの側面を秘めている。1時間泣き続ける赤ちゃんを抱いてあやすのは、間違いなくへとへとになる。でもそこで部屋の向こうにいる妻と目が合う。お互い「笑うしかないだろ、これ」という顔をしていて、吹き出して笑ってしまう。すると張り詰めた空気は消えないまでも、不思議と幸せな緊張感に変わる。確かに大変だけど、一人で大変な思いをしているわけじゃない。いつかは泣き止んで、一緒にベッドに倒れ込めることが分かっているからだ。
怖いことではあるけれど、それが素晴らしいものになると信じるしかない。子どもがもたらす喜びというのは、持つ前には想像不可能なのだから。
とはいえ、子どもを持つことがどれだけ惨めで大変かを大声で叫ぶ人たちは大勢いる。ありがたいことに、極端なケースを除けば、それは子ども自身の問題というより、親の姿勢の問題であることがほとんどだ。
心構え
どんな状況に置かれても、結局は不幸を感じる一定数の人はいる。
だって、現実を見てみよう。寝不足は辛い。服にうんちが付くのは最悪だ。違う青いワンピースが良かったと幼児にギャン泣きされるのも、うんざりする。
でも、いい加減にしてくれ。そこまで最悪というわけじゃない。溝の中で石を割っているわけではない。冷暖房の効いた家にいて、娯楽は無限にあり、タイ料理だって呼び出せる魔法のガラス板を持っているのだ。
新生児が泣き叫んでいるときは、だいたいお腹が空いているか、ガスが溜まっているか、眠すぎるか、おむつが汚れているかのどれかだ。そのどれかを一つずつ解消していけば、やがて泣き止む。
子どもが寝てくれず、夜中に何度も起こされるなら、コーヒーを飲んで、どうすればもっとよく眠ってくれるかを考えればいい。
子どもに深刻な健康問題でもない限り、延々と文句を言うほどの難題などそうはない。文句を言い続ける人は、そもそも何に対しても文句を言うタイプの人なのだ。
ついでに言っておくと、親同士の会話には、外から聞くと愚痴に聞こえるが、実際には一種の共有されたユーモアに近いものがある。
例えば今朝、上の娘たちが6時20分に起きて、急いで階下に降りようとしたので、ライトが点くまで部屋にいなきゃいけないよと言ったら泣き出した、という話をすると、子どもがいない人には、起こされたとか泣かれたとか、悪い部分ばかりが耳に残るだろう。
でも実際には、決して嫌な出来事ではなかった。彼女たちが悲しんだのは、階下に僕の気配を感じて、一緒に遊びたくて興奮したからで、それ自体とても愛おしいことだ。部屋まで連れ戻すときにぐずったけれど、ベッドで少し抱きしめたら落ち着いて、その後は7時までご機嫌に部屋でうとうとしたり遊んだりしていたのだ。
正しい心構えでいれば、子育ての困難のほとんどは、一種の「おかしな奮闘」になる。その瞬間は心理的に消耗するけれど、同時におかしくもある。酔っ払いに寝る前に水を飲ませようとするようなものだ。
だから困難は現実にあるものの、多くの親はそれを一種のタイプ2の楽しさ(その時は辛いが後から楽しくなるような楽しさ)として受け流す。そうできない一部の人は、オンラインで子どもの愚痴を言って注目を集めたがるが、そういう声は無視すればいい。働かなければならないのが不公平だと愚痴る人を無視するのと同じように。
もちろん、ここには当たり前の但し書きがある。良いパートナー(そして正しい心構えを持ったパートナー)がいることは助けになる。お金があれば助かる。家族が近くにいれば助かる。でも、自分の状況について想像するどんな欠点も、自分の心構えほど制約にはならない。
困難を受け入れてなんとかやり遂げる人になるか、文句を言う人になるか、どちらかだ。そしてキッズ・トレインに引っ張ってもらっているときは、困難を受け入れる方がずっと楽なのだ。
キッズ・トレインは進み続ける
子どもを持つことは、僕がこれまでに経験した中で最も大変なこととは程遠い。一番大変だったことが何だったのかは、正直よく分からないが、思い浮かぶ候補が二つある。
一つ目は、2020年に僕のマーケティングエージェンシー、Growth Machineを経営していた時期だ。コロナによるロックダウンが始まると、クライアントの半分以上が契約を解除し、キャッシュフローはマイナスに転落し、給料が払えなくなる危機に瀕した。なんとか生き延びたが、全員の給料と健康保険が自分にかかっていると知りながら、あの時期を乗り越えるのは本当に過酷だった。
二つ目は、2年前にハーフアイアンマンに出場したときのことだ。1.2マイルのスイムで水に飛び込んだ瞬間、前の選手に顔を蹴られ、ゴーグルが外れて口の中にガルベストンの油っぽい水が流れ込んだ。56マイルのバイクの後半は、容赦ない向かい風だった。ハーフマラソンのランでは半分を過ぎたところで両脚が攣り、残りの6マイルは歩くしかなく、一歩ごとに脚が完全に固まって道端に倒れるのではないかと思いながら進んだ。
子育ての急性の、そして慢性の困難は、この二つのどちらにも遠く及ばないと感じている。そしてそれがずっと楽に感じられる核となる理由は、最も大変な瞬間でさえ、子育ての困難を自分で押して進むのではなく、引っ張られて進んでいるからだ。
Growth Machineはいつだって2020年の時点で畳むことができた。でも僕は毎朝目覚めるたびに、続けることを選び続けた。レースだって70.3マイルのどこででもリタイアできたが、続けることを選んだ。それらの困難にしがみつくために、自分を奮い立たせなければならなかった。それらが選択可能なものだと十分に分かった上で。
そしてありがたいことに、子どもに関しては困難が「選択可能」になることは決してない。ご飯をあげないわけにはいかない。あやさないわけにはいかない。別の部屋で深呼吸して気持ちを落ち着かせるために、1分だけ泣かせておいて対応を先延ばしにすることはできても、やめるという選択肢はないのだ。
アレックス・エリオットはこれを「キッズ・トレイン」と表現したが、まさに完璧な比喩だ。

キッズ・トレインは進み続ける。あなたが列車を押しているわけではないし、止めようとするのは愚かなことだ。できることは、ただその旅を楽しむことだけだ。
そしてありがたいことに、列車は動き出すまでに長い時間をかける。
緩やかな助走
コゼットと僕が3人の子どもを連れてコーヒーショップに現れたとき、若い独身の人たちが何を思うか想像するのが好きだ。彼女は新生児を抱っこ紐で抱えていることが多く、僕は幼い子たちがスクーターで誰かにぶつかったり、クレヨンを掴みすぎたりしないように目を配ろうとしている。
きっと、かなり慌ただしくて大変そうに見えるのだろう。ピクニックテーブルで一人静かに座り、ランニングクラブのどの可愛い子に声をかけようか考えているような平穏とは程遠い。
でも僕自身は、大変だとか慌ただしいとは感じていない。むしろとても楽しいし、たとえ何か困難が起きても、椅子を引いて塗り絵を始めたり、飾りの干し草の俵から食べる馬の真似をしたりする彼女たちの姿を見る喜びが、記憶からそれを洗い流してくれる。
もちろん、ある日一人でコーヒーをすすり、翌日目が覚めたら3人の子どもがいた、ということになれば、極めて大変に感じるだろう。でも子どもは、その要求に順応するための長い時間を与えてくれる。
だからこそ、子どもを持つために「準備を整える」ことは、正直言って馬鹿げていると思うのだ。先に対処しなければ本当に無責任だと言えるような、深刻な健康上や生活上の問題を抱えているのでなければ、子どもを作ろうとし始めてから、準備のための時間はたっぷりある。
そもそも妊娠するまでに最低でも数ヶ月はかかるだろうし、たとえ予期せぬ妊娠だったとしても、気づいてからまだ7ヶ月半はある。必要な「準備」のほとんどは1日でできるし、その多くは生まれてからでないと必要にすらならない。
子ども部屋?生まれてから少なくとも数ヶ月は必要ない。赤ちゃんはたいてい寝室のバシネットで寝るし、おむつ替えのために特別な台が本当に必要というわけでもない。
ねんねトレーニング?生後4ヶ月までは気にする必要はないし、必要なことは一冊の本で全部学べる。
安全対策?6〜9ヶ月までは問題にならないし、歩き始めてから必要になった箇所だけやればいい。
最初に必要なのは、寝る場所とチャイルドシート、おむつ、おしりふき、そして数枚の服だけだ。その気になれば10分の買い物で済む。そして何か足りないことに気づいても、たいてい1時間以内、遅くとも翌朝には手に入る。
2人、3人になったときの大変さはどうなのか?それもまた、一度にそこへ到達するわけではない。準備のためにまた7ヶ月半あるし、今いる子は次の子が生まれる頃には今の子ではない。もっと大きくなり、もっと自立し、あなた自身も親として1年近く経験を積んでいるのだ。
一気に大変になることはめったにない。気づかないうちに、するりと次のレベルの大変さへ滑り込んでいくのだ。
幼児が2人に新生児が1人という今の生活を考えるとき、「うわ、こんなに大変になったな」と思うことはめったにない。むしろ「前がどれだけ楽だったか気づいていなかったな」と思う。今や3人いるので、1人だけを見るのは冗談みたいに楽に感じる。世界で一番簡単なことのように。
でも1人だけだったときは、決してそうは感じていなかった。
そのうち分かるよ
コゼットが2021年に長女を妊娠して以来、妊娠や子育てのどんな部分が予想より楽だったと口にするたびに、僕たちは「そのうち分かるよ」と言われてきた。
4ヶ月の睡眠退行が来たら分かるよ、と。
歩き出したら分かるよ、と。
「イヤ」と言い出したら分かるよ、と。
2人になったら分かるよ、と。
僕はずいぶん長いこと待ってきたが、分かったのは、どんどん良くなっていくということだけだ。予想していたより、ずっと楽なままだということだ。
そして、子どもを持つことは僕たちの人生で最高の決断だった。
素晴らしい妻であるCosetteに感謝したい。この記事が「ただの父親の戯言」にならないように協力してくれたことに。そして一緒にこの素晴らしい家族を築いてくれていることに。
他にも何か素晴らしい読み物をお探しなら、僕のSF小説Huskをぜひ手に取ってみてほしい。Publishers Weekly誌は本作を「終末後のアドベンチャーと陰謀に満ちたSFスリラーを融合させた、心を掴んで離さないデビュー作」と評している。
最後に、この記事を楽しんでいただけたなら、次回作を受け取れるよう、ぜひ購読を検討してほしい。
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