On Taste

Matthias Endler

センスについて

原文は Matthias Endler により に公開されました。 このブログを購読する

このブログのデザインを磨き続けて、もう20年になる。バージョンを重ねるごとに、自分が本当に求めているものが少しずつはっきりしてきた。

振り返ってみると、デザインは時間を経るごとにどんどんシンプルになっていった。今ではタイポグラフィと余白しか残っていない。何を大切にし、何を削ぎ落とせるかがわかるようになってきたのだ。

ごちゃごちゃしたものを取り除くと、喜びが生まれる。もしかすると、それは人間に深く根ざした感覚なのかもしれない。

これまでのブログデザインのスクリーンショット

2007
2007
2011
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2018
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2026
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偏愛と好み

何かに十分な時間を費やせば、必ずそれについて強いこだわりが生まれる。細部に取り憑かれるようになる。そしてこの世のあらゆるものは、誰かの偏愛の対象なのだ。

スニーカー。メカニカルキーボード。コーヒー。

映画を観込み続ければ、ダッチアングルを分析し、カラーグレーディングにこだわり出すかもしれない。テンポの微妙な乱れに気づくようになる。たとえ端役であっても、別の作品に出ている同じ役者を見分けられるようになる。

一度ニュアンスが見え始めると、もう元には戻れない。強い個人的な好みが育ったということだ。

だがこの段階では、まだ単なるこだわりを持った一人に過ぎない。

好みを持つことと、良いセンスを持つことは別物だ。

良いセンスを磨くには、自分の好みの外側にあるクオリティを認めなければならない。それは、あるものが意図的な選択を通じてどう思想を表現しているかを見抜き、その選択が誠実かどうかを判断できることだ。

良いセンスは文脈に根ざしている。対象の背後にある歴史や職人技を理解することが求められる。それがなければ、クオリティは目の前を通り過ぎていくだけだ。

センスと専門性

良いセンスと専門性は兄弟のようなものだ。どちらも深く愛することから生まれる。どちらも物事がなぜうまくいくのかを知ることが必要だ。どちらも、一つひとつの決断がもたらす影響への自覚を求められる。

だが両者は同じではない。センスとは見極める力だ。自分では作れないものに対してもセンスを持つことはできる。専門性とは作り出す力だ。センスがなくても、ある分野の専門家にはなれる。

面白いのは、片方がもう片方を引っ張ってくることがよくある点だ。センスのある人は細部をとことん気にするあまり、やがて自分で作り始める。そして自分の仕事に愛情を注ぐ専門家は、副産物としてセンスを身につけていく。

トリガー

ウィリー・ネルソンのギター、1969年製のマーティンN-20、トリガーを例に取ってみよう。文脈を抜きにすれば、ただ擦り切れた木の塊に過ぎない。路上ミュージシャンのギターと言われても違和感はない。だが1万回のステージを経て、それはウィリー・ネルソンそのものの一部になった。

彼は新しいギターを何百回でも買うことができた。だがそうしなかった。求める音に対するセンスがあまりに強烈だったため、トリガー以外の何ものでも妥協できなかったのだ。1977年以来、ずっと同じリペアマンがその手入れを続けている。

ウィリーは自分のサウンドに対してコントロールを求める。なぜなら、細部こそがサウンドを形作るからだ。彼は特別なことをしたわけではない。ただ当たり前のことを、並外れてうまくやり続けた結果、それが非凡なものになったのだ。

ギターを形作ったのはウィリーなのか、それともウィリーのサウンドを丸く研ぎ澄ましたのはギターなのか。彼らは共に年を重ねた。そして共に生涯を終えるだろう。

彼のようなアーティストの演奏を見ると、すべてがいとも簡単に見える。何が重要で何がそうでないかを知っているからだ。違いを生む細部にだけ集中し、残りは無視する。だからこそ、彼にとって物事はシンプルになる。コツはここにある。良いセンスは何を見るべきかを教えてくれ、専門性はそれをどう実現するかを教えてくれる。何を際立たせ、何を削ぎ落とすかを。

Apple

Apple製品を買ったからといって、センスが良いということにはならない。何百万人もの人が持っている。多くの人にとって、それは単なるステータスシンボルだ。Appleが「Think different」を助けてくれる度合いは、エア ジョーダンが高く飛べるようにしてくれる度合いと同じだ。(とはいえ、あのポスターは僕も大好きだが。)

むしろ、センスのある人はしばしばブランドを避ける。ブランドこそが、優れたプロダクトをダメにするのだ。

そのサイクルはこうだ。

  1. 企業が素晴らしいものを作る。
  2. アーリーアダプターが熱狂する。
  3. 人気が広がる。
  4. プロダクトがマス市場向けに調整される。
  5. クオリティが落ちる。
  6. アーリーアダプターは去っていく。

ほとんどのプロダクトは平均的な顧客に向けて作られる。だからほとんどのプロダクトは平均的なクオリティに落ち着く。僕らはすべてに精通できるわけではないから、他人の評判を信じ、そしてなぜ世の中の多くのものがイマイチなのかと首をかしげることになる。

たとえ言葉にできなくても、何かが水準以下だということはなんとなく感じ取れる。それは少し悲しいことだ。

ブランドはクオリティや誠実さなんて気にしない。気にするのは金だけだ。

アルゴリズムの問題

今日、独自のセンスを育てるのは以前より難しくなっている。僕らは、自分がすでに好きなものだけを見せてくれるフィードやアルゴリズムに囲まれている。自分が好きではないものに触れなければ、自分が本当に好きなものにも出会えない。

あまりに心地よさに浸りすぎると、センスを磨くこと自体をやめてしまう。好みは狭く、浅くなる。なぜ好きなのかもわからないまま、ただみんなが好きなものを好きになるだけだ。

そこから抜け出す方法は、何かに愛情を注ぐことだ。何でもいい。自分の一部になるほど、とことんこだわるのだ。

誰もが、理屈抜きにのめり込めるものをひとつは持つべきだ。中身を隅々まで知り尽くした何かを。それが人をより面白くし、人生をより豊かにする。

人は共通の偏愛を通じて社会的なつながりを作る。エスプレッソグラインダーやバイクの話で意気投合する。そうやって、見知らぬ人とも一瞬でつながれるのだ。

誰かのために何かを作ると、自分のセンスは可視化される。それはあなたが何者で、何を大切にしているかを示す。怖いことだ。だが、それこそが仲間を見つける方法なのだ。

このブログのデザインを磨くことを、僕はきっと一生やめないだろう。専門家ではない、ただこだわりを持った一人に過ぎないのかもしれない。でも、このブログは僕の禅庭だ。喜びをくれる。さあ、あなたも自分の庭を作りにいこう。

この記事は「muse-spark-1.2-contributor」を使用して翻訳されました。

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