アニメの葉巻にしておけば、ずっと簡単だったのに
原文は Marcin Wichary により に公開されました。 このブログを購読する
こちらの7分間の動画で、kaptainkristianが語っているのは、1988年公開のCG以前のハイブリッドなアニメーション/実写映画『ロジャー・ラビット』(原題:Who Framed Roger Rabbit)の驚くべき制作過程についてだ。

これは「bumping the lamp(ランプにぶつかる)」と呼ばれている。『ロジャー・ラビット』の制作中にディズニーで生まれた言葉で、アニメーターに期待された水準をはるかに超えてこだわり抜くことを指す。
このシーンでロジャーが普通のアニメのように終始平面的な明かりで照らされたままでいても、何の問題もなかったはずだ。だがアニメーターたちはあえて時間をかけ、セル一枚一枚に異なる陰影を施した。そうすることで、現場のランプの光が、まるで実際の物体に反射するかのように見えるようにしたのだ。
しかも彼らは、刻々と変化する照明を、ロジャーの手足のあらゆる輪郭、服、顔、そして周囲に落とす影にまで反映させなければならなかった。光の質感、わずかな色温度の違い、ランプの揺れまで考慮する必要があった。ロジャーの耳に至っては、体の他の部分よりずっと薄いため、わずかに透けて見えるようにさえなっている。そこまで考え抜かれていたのだ。
1988年当時、観客はこのレベルのリアリズムなど期待していなかった。しかし、一見すると余計にも思えるこうした細部の積み重ねが、無意識のレベルでその表現を本物らしく感じさせているのだ。
「bumping the lamp」は、互いに関連し合う二つのレベルで捉えることができる。ひとつはアウトプットの質に焦点を当てたもの(上で述べたようなもの)、もうひとつは職人としての熟達へ向かうプロセスそのものに焦点を当てたものだ。
その二つ目のレベルについて、数年前にさかのぼる初代Macチームの逸話を紹介しよう。
ある日、Burrellが突飛なことをし始めた。Andyが僕のブースにやってきて言った。「BurrellがDefenderで何やってるか見に来いよ」。「ビデオゲームでどうやってイノベーションを起こすんだ?」と僕は思った。BurrellやAndyがいろんなことで革新的なことをするのは見てきたが、ビデオゲームという枠の中でどうやって型を破るのか想像できなかった。ゲームの流れも目的もマシンが決めているのに、どうやって主体性を発揮できるというのか。
僕らは新たにゲームを始めた。そしてBurrellの番になると、彼は僕を驚かせることをやってのけた。なんといきなり自分の人間たちを全員撃ち始めたのだ!これは完全にゲームの目的に反することだった!彼はエイリアンを狙いさえせず、最後の人間を撃つと、人間たちは全員ミュータントに変わり、あらゆる方向から彼に襲いかかってきた。彼はニヤリと笑ってこちらを見やり、「めちゃくちゃにして、片付けるんだ!(Make a mess, clean it up!)」と言い、騒々しく追いかけてくる怒ったミュータントの大群をかわし始めたのだった。
僕自身は映像やモーションが得意なわけでも、ましてやゲーマーというわけでもない。だが、時々あえてプールの深いところまで歩いていって、己の信念のために自分自身を放り込みたくなる気持ちはよくわかる。新しいプロジェクトを始めるとき、わざと使ったことのないフレームワークや手法を選んで、難易度を上げることがある。Areslunaでも、そしてここUnsungでも、「中央寄せしない(no centering)」という恣意的な原則をあえて掲げた。より難しくはあるが、よりやりがいのある非対称性を受け入れ、それが自分をどこへ連れて行くのか見てみたいと思ったからだ。
この話をもうひとつの格言のすぐ後にシェアするのは、上から与えられるスタイルガイドやデザイン原則よりも、こうした個人的な信条のほうを信じているからだ。クラフトは、個人から自然に湧き上がるものとして、それを組織やそれに伴うプロセスが認めたときに花開くと僕は考えている。人にランプにぶつからせ、めちゃくちゃにさせ、変なことにこだわりを持たせ、いろいろなことをやらせてみるのだ。そして他の人たちがそれを観察し、そこから学び、誰に頼まれたわけでもないのに自分をより奮い立たせるような奇妙な儀式や恣意的なルールを共有できるようにすればいい。
オリジナルの動画を教えてくれたJon Wileyに感謝する。
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