デザインだけが私の情熱ではない
デザインやテックの世界では、「仕事だけが私の情熱だ」というモットーを掲げるのが当たり前だ。本当にそう言える人は幸運だと思う。私の場合は違ったし、それを認めるまでにあまりにも長くかかった。それでも、ようやく認められてよかった。
最初の仕事に就いてからこの15年間、私はデザインの分野で働いてきた1。誰かに面と向かって言われたわけではないけれど、自分が情熱を注いでいるのはデザインなのだと示さなければならない、そんな必要や義務をずっと感じていた。インターネットがあり、私たちの交流も投稿も趣味も、誰にでも見えてしまう今の世界では、その義務感はいっそう強い。
SNSでプロフィールを開設したら、まず誰をフォローするだろう? 自分と同じことをしている人たちだ。そして彼らの投稿を読んで、何を思うだろう?
「仕事について書かなきゃ。自分がどれだけ仕事ができるか、みんなに2見せなきゃいけない。ただお金のためにやっているんじゃなくて、これが自分の情熱で、これを生きがいにしているんだとわかってもらわなきゃ」
でも、実のところ私はそんなことをまったく気にしていないと気づいた。いや、だからこそ、腰を据えて文章を書く気になれなかったのだとわかった。
すでにオンラインには何百本もあるのに、なぜまたUXリサーチでAIを使う方法について記事を書かなければならないのか。そこに本当に独自の何かを加えられるのか。テクノロジーとUXだけが唯一の情熱である人たちはたくさんいて、すでに素晴らしい仕事をしている。私がそこに意味のあるものを加えられないことはわかっている。
同じことを繰り返したくないし、結局のところ十分に関心を持てないことのために、何時間も何日も調べものをしたくない。自分が愛し、大切に思うものに没頭したい。
それで仕事に何か影響が出るのか? まったく出ない。仕事は好きだし、画面の前で何かをデザインしたりリサーチしたりするときは、いつだってわくわくする。今では、遭遇する問題の大半に向き合えるだけの知識がある。15年も経てば、さらに調べるべきとき、学び直すべきとき、あるいはひらめきを待てばいいときもわかる。
正直に言えば、テックの世界にさえ飽き始めている。ここ数年、私は二律背反の中で生きてきた。新しいテクノロジーにはものすごく惹かれる一方で、最新の情報を追い続け、試せるものをすべて探っていたら、いとも簡単に時間を使いすぎてしまうのが怖い。
これにも「これだけが自分の情熱なのか?」という同じ問いを当てはめてみたら、ずっと知っていたことがわかった。違う、そうではない。テクノロジーは好きだし、興味深いと思うし、夢中になることもある。でも、これのために生きたいわけではない。3
これからも仕事に関係するニュースを追い、インスピレーションを得られそうなアプリをダウンロードし、テック、デザイン、UXについての本も読む。でもそれは、仕事に必要だからだ。今の役割で素晴らしい仕事をしたい。ただ、そのために、自分が4そうあるべきだと感じる以上の時間まで奪われる必要はない。
ここで、「わかった。でも、じゃああなたの情熱って何?」と思うかもしれない。言えるのは……よくわからない、ということだけだ。きっと、いくつものものが混ざり合っている。
何を楽しみ、自由な時間に何へもっと時間を使いたいかはわかっている。それが大事だ。
クライミング、旅行、写真を撮ることと編集すること、書くこと、読むことが含まれる。
そのうちいくつかは、どうせやることだから外せる。クライミング、旅行、写真撮影は、ここまで書いてきたことと矛盾しない。一方で、写真の編集、書くこと、読むことには、もっと時間を割きたいと確信している。
どれも、やっていて誇らしいと感じることだ。何日もかけて集中していても、「本当にそこまで大切なのか?」という疑念が忍び寄ることはない。
追記:テクノロジーの使い方について
今ではさまざまなサービスを利用でき、それで時間を無駄にするのがあまりにも簡単なことについて、私が気にかけているのは、たいていの場合、あなたを画面に釘付けにする新たな方法を見つけるためだけに、何十億ドル規模の企業が想像もつかない額を研究に投じている、ということだ。
誰もが知っていることだとはわかっている。でも、実際に考えたことはあるだろうか?
ここ数年私がしているのは、受け身の行動を能動的な行動に置き換えることだ。Instagramをスクロールする代わりに写真を編集する。あまりにも多くのブログ記事をスクロールして読む代わりに、ブログ記事を書く5。短い記事ではなく、本や長文の記事を読む6。などなど。
以前はこういうことをもっと頻繁にしていた、と言うのは私だけではないと思う。今はむしろ、時間が指の間からこぼれ落ちていくようで、自分がしたいことにまったく集中できないと感じる。
- スマホからSNS、エンターテインメントアプリ、ゲームをアンインストールする7
- ストリーミングサービスをやめ、映画はレンタルを選ぶ8
- 紙の本を読むことに戻る9
- ポッドキャストなんてくそくらえ10
- ニュースは厳選した少数の情報源からだけ読む
- アルゴリズムやAIより、人のキュレーションを重視する
- 短いコンテンツより長いコンテンツを選ぶ。
これらの活動にはどれも、先の行動にはない何らかの努力が必要だ。そして、その努力が少しあることこそ、物事を本当に楽しむ鍵だと思う。新しく誠実なものをつくること、これまで考えたこともなかったものに出会うことには、満足感がある。
それは少しの努力と、かなりの自制心11があってこそ得られる。
私はあらためて気づいた。少し丘を登って、その景色を楽しめるほうが好きなのだ。12
登山には一つの危険がある。より高い場所にいることで、下界を見下してよいのだと信じてしまうことだ。澄みきった空気と誠実な魂、優れた健康と高尚な思考を安易に結びつける。この酒場じみた象徴主義は、山の浄化の力を説く根強い文学を生み出してきた。そこでは山頂を制することが道徳的優越と重なる。しかし実際には、頂上に立ってもその人の価値が増すことはない。人は変わらない。素晴らしい高みへ達しても、自分の惨めさをそのまま持っていくのだ。
— Sylvain Tesson『Blanc』
脚注
これまでのキャリアでは、建築家、3Dアーティスト兼アニメーター、グラフィックデザイナー、そしてWebデザイナーを経験してきた。世界中に散らばる30人以上のデザインチームのマネージャーを務めたこともある。今は、非常に複雑なプロダクトに取り組む小さなUXチームのマネージャーだ。 ↩
とりわけ、採用担当者の目に留まる可能性のために。きれいごとはやめよう。 ↩
そもそも、たいていの場合は一番話したいことですらない。世界には興味深いことがたくさんあるのに、職歴に基づいただけの一次元的な人物として生きる必要があるだろうか? ↩
「考える」ではなく「感じる」。ここは重要だ。自分の内側には、ずっと前に押し殺してしまったかもしれない小さな声があって、人生にあるさまざまなことの正しい優先順位を教えてくれる。 ↩
誤解しないでほしい。好きな著者はいて、これからも読み続ける。まさにそれが言いたいことだ。自分が関心を持つものだけを読み、自分を成長させ、考えさせてくれるものを読む。 ↩
これを能動的な行為と呼べるとは思わないかもしれないが、それでもツイートを読むよりは深く関わる必要がある。 ↩
これは別の話題だが、最新のテレビ番組について皆が話しているのを見ると、FOMOに圧倒されるのは簡単だ。で、見てみるとひどいか、せいぜいまあまあだったとわかる。いつものことだ。 ↩
旅行用にKindleを買った。便利ではあるけれど、今では長い移動を、ずっと後回しにしてきた本を読むよう自分を強いるために使っている。 ↩
車での長旅にはいい。それだけだ。周囲で話題に上るポッドキャストの数に比べれば、自分の人生に価値あるものを加えてくれる番組は片手で数えられる。 ↩
おそらくこれがいちばん難しい。繰り返すが、あなたが時間を無駄にするように、どれほどの金が投じられているかを考えてみてほしい。また、常に自分を改善しようとするあまり、そもそも何を達成しようとしていたのか見失う「生産性ポルノ」のループに入ることもある。でも、それはまた別の機会に……。 ↩
今書いたこの一文で、こうした象徴表現がなぜよくないのかを説明する美しい一節を思い出した。でも、くそくらえ。このまま残しておく。 ↩
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