デザインは僕の唯一の情熱ではない
原文は Francesco Puppo により に公開されました。 このブログを購読する
デザインやテックの世界では「仕事こそが唯一の情熱」というモットーを掲げるのが当たり前のようになっている。そう言い切れる人は幸運だ。僕はそうではなかったし、それを認めるまでに時間がかかりすぎた。でも、ようやく認められたことを今は嬉しく思っている。
僕は最初の仕事からこの15年間、ずっとデザインの分野で働いてきた1。誰かに直接そう言われたわけではないのに、ずっと「自分はこれに情熱を燃やしている」と示さなければならない、そんな必要性、義務感のようなものを感じてきた。今の時代、この重圧はさらに強く感じられる。インターネットのおかげで、僕らのやり取りも、投稿も、趣味も、誰にでも見られてしまうからだ。
SNSでアカウントを開いたら、誰をフォローし始めるだろう? 自分と同じことをしている人たちだ。そして彼らの投稿を読んで、どう思うだろう?
「仕事のことを書かなければ。みんなに2自分がどれだけ仕事ができるかを示さなければ。ただお金のためにやっているんじゃない、これは自分の情熱で、自分の人生そのものなんだってことをわかってもらわなければ」
でも、気づいたんだ。本当はどうでもよかったのだと。いや、正確には、これこそが僕が腰を据えて文章を書く気になれなかった理由なのだとわかった。
オンラインにすでに何百とあるHow to use AI for UX researchについて、なぜ僕が今さらもう一本記事を書く必要があるのだろう? そこに本当に独自の何かを付け加えられるだろうか? テクノロジーやUXこそが唯一の情熱だという人たちが、すでに素晴らしい仕事をしている。僕が付け加えたところで、意味のあるものにはならないとわかっている。
同じことの繰り返しはしたくないし、結局のところそこまで関心を持てないことに何時間も何日もかけてリサーチしたくない。自分が本当に愛し、大切に思えることに没頭したいんだ。
これが仕事に影響するかって? 全くしない。僕は自分の仕事が好きだし、画面の前に座って何かをデザインしたりリサーチしたりするたびに今でもワクワクする。15年経った今では、出くわすほとんどの問題に対処できるだけの知識があるし、いつもっと調べるべきか、勉強に戻るべきか、あるいはただひらめきを待つべきかがわかっている。
正直、テックの世界にさえ退屈し始めていた。ここ数年、僕は矛盾を抱えて生きてきた。新しいテクノロジーにはすごく心を惹かれる一方で、最新を追いかけたり、試せるものすべてを試したりしているうちに、いとも簡単に膨大な時間を失ってしまうことが怖いんだ。
テクノロジーに対してもそれは僕の唯一の情熱なのか?という同じ問いを当てはめてみたら、ずっと前からわかっていた答えに行き着いた。違う、そうではない。好きだし、面白いと思って夢中になることもあるけれど、人生をかけてやりたいことではないんだ。3
今後も仕事関連のニュースは追うだろうし、インスピレーションを得られるアプリをダウンロードしたり、テックやデザイン、UXに関する本を読んだりもするだろう。でもそれは仕事で必要だからだ。今の役割で素晴らしい仕事はしたい。ただ、それが必要以上に――僕が感じる以上に4――時間を奪う必要はないと思っている。
「で、じゃあ君の情熱は何なの?」と思うかもしれない。僕に言えるのはただ……よくわからない、ということだ。間違いなく、いろいろなものが混ざり合ったものなんだと思う。
自分が何を楽しみ、自由な時間にもっと何に時間を使いたいかはわかっている。それが大切なことだ。
それはクライミング、旅、写真を撮ることと編集すること、書くこと、そして読むことだ。
そのうちいくつかは、どのみちやることだから除外できる。クライミングも旅も写真を撮ることも、ここまで書いてきたことと矛盾しない。一方で、写真の編集、書くこと、読むことは、もっと時間をかけたいとわかっていることだ。
これらはどれも、やっていて誇りを感じられることだ。何日でも集中して取り組めるし、本当にそこまでこれに情熱を持っているのか?という疑念が忍び寄ってくることもない。
追伸:テクノロジーの使い方について
今僕らが利用できる様々なサービスでいかに簡単に時間を無駄にしてしまうか、という僕の懸念は、ほとんどの場合、背後には何十億ドルもの企業がいて、僕らを画面に釘付けにする新たな方法を見つけるためだけに想像もつかないほどの金を研究に費やしているということを考えなければならない、ということだ。
みんな知っていることだと思う。でも、本当にそのことを考えたことはあるだろうか?
僕がここ数年やってきたことの一つは、受動的な行動を能動的なものに置き換えることだ。Instagramをスクロールする代わりに写真を編集する、大量のブログ投稿をスクロールする代わりにブログ投稿を書く、短い文章ではなく本や長文の記事6を読む5、といった具合に。
昔はこういうことをもっと頻繁にやっていたと言うのは、僕だけではないと思う。今は逆に、時間が指の間からすり抜けていくように感じられて、やりたいことに全然集中できない。
- スマホからSNSやエンタメ系アプリ、ゲームをアンインストールする7
- ストリーミングサービスを解約し、観たいときはレンタルを選ぶ8
- 紙の本を読むことに戻る9
- ポッドキャストなんてクソくらえ10
- ニュースは厳選した数少ないソースからのみ読む
- アルゴリズムやAIよりも人によるキュレーションを重視する
- 短いコンテンツよりも長いコンテンツを好む
これらの活動はどれも、他のものにはない何らかの努力を必要とする。そして、その(ちょっとした)努力こそが物事を心から楽しむための鍵だと思う。何か新しくて誠実なものを作り出したり、今まで考えもしなかったことを発見したりすることには、満足感がある。
それは少しの努力と、かなりの自制心があって初めて得られるものだ11。
僕は結局、いくつかの丘を登って、その景色を楽しめる方が好きなのだと改めて気づいた12。
登山のリスクとは、高い位置にいることが下界を軽蔑する権利を与えてくれると信じてしまうことだ。澄み切った空気と誠実な魂、素晴らしい健康と高尚な思考との安易な類推。この居酒屋談義のような象徴論は、山の浄化作用についての揺るぎない文学を生み出してきた。そこでは山頂の征服が道徳的優位と一致する。実際には、頂上に立っても人の価値が高まることは決してない。人は変わらないのだ。素晴らしい高みに到達しても、人は自らの悲惨さを抱えたままなのだ。
— シルヴァン・テッソン, Blanc
脚注
キャリアの中で僕は、建築家、3Dアーティスト兼アニメーター、グラフィックデザイナー、そしてウェブデザイナーを経て、世界中に散らばる30人以上のデザインチームのマネージャーを務め、今は極めて複雑なプロダクトに取り組む小さなUXチームをマネジメントしている。 ↩
特に、採用担当者に対してね。綺麗事はやめよう。 ↩
そもそも、ほとんどの時間において僕が話したいことですらない。世界には面白いことがたくさんあるのに、なぜ職歴が語ることだけを軸にした一面的な人物として生きなければならないのか? ↩
考えるのではなく、感じるのだ。それが重要だ。君の中には、ずっと昔に押し殺してしまったかもしれない小さな声があって、人生の中にある様々な物事の正しい優先順位を教えてくれる。 ↩
誤解しないでほしい、僕が大好きでこれからも読み続ける著者もいる。そしてそれこそが僕の言いたいことだ。本当に大切に思うものだけを、自分を成長させ、考えさせてくれるものだけを読むということ。 ↩
能動的と呼べるものには思えないかもしれないが、それでもツイートを読むよりはずっと主体的な関わりが求められる。 ↩
これはまた別の話題だが、みんなが最新のドラマについて話しているのを見てFOMO(取り残される不安)に圧倒されるのは簡単だ。結局見てみたらクソだったか、せいぜいまあまあだった、というのがいつものオチだ。 ↩
旅先用にKindleを買ったが、便利なのは確かでも、今では長い移動の時間を使って、あれほど長い間後回しにしてきた本を無理やり読むようにしている。 ↩
ポッドキャストが役立つのは車での長旅のときくらいで、それだけだ。周りで話題にされているポッドキャストの数に比べれば、僕の人生に本当に価値あるものを加えてくれた番組なんて片手で数えられるほどしかない。 ↩
これがおそらく最も難しい部分だ。繰り返すが、君に時間を無駄遣いさせるためにどれだけの金が投資されているかを考えてみてほしい。それに、常に自分を向上させようとするあまり、何を達成しようとしていたのかを見失ってしまう「生産性ポルノ」のループに陥ることもある。でも、それはまた別の機会に…… ↩
今書いたこの一文で、なぜこうした象徴論がダメなのかを説明する美しい一節を思い出したが、まあいいや、そのままにしておこう。 ↩
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