バットマン:ロング・ハロウィーンとコミックの力

最近、『バットマン:ロング・ハロウィーン』を観た。同名のグラフィックノベルを原作にした3時間のアニメ映画なのだが、その想像力のなさにひどくがっかりした。
ストーリーのことではない。ストーリーは悪くない(原作から変えられた部分であまり気に入らないところはあったけど)。言いたいのは絵のことだ。
コミックの魅力は、アーティストに与えられる自由の大きさにある。もちろんルールはある。でも、最高の仕事はたいてい、そのルールを破ったときに生まれる。たとえばフランク・ミラーの仕事を見てみよう。

彼の絵では、光や影の描き方はしばしば不正確で、リアルではない。だが、そこから生まれるイメージは圧倒的に力強い。
『シン・シティ』を実写映画化したとき、この表現を再現しようとしたが、うまくはいかなかった。できる限り近づけてはいたが、どんなメディアにも限界はある。
アニメなら、この境界をもっと押し広げられるはずだ。だからこそ『バットマン:ロング・ハロウィーン』を観てがっかりした。アニメーターたちは、コミックらしいスタイルに向かうのではなく、実写映画の方向へ舵を切った。そして、それが退屈なのだ。
たとえばこのシーンを見てほしい。

右側の画像の方がリアルだ。光は柔らかく、血は水中でゆっくりと広がっていく、といった具合だ。でも、そうでなければならないのだろうか。そうしたルールは写真や映画には当てはまっても、絵には当てはまらない。『バットマン:ロング・ハロウィーン』を観ていて頭に浮かんだのは、こんなことだった。「本当は実写で撮りたかったけどできなかったから、代わりにこれを作った。これで十分近いと思っている。もし本物の俳優がいれば、すべてまったく同じようにうまくいくはずだ。問題は、彼らがいないことだけだ」。
存在しない制約を、自分たちで勝手に課しているのだ。

同じように、影を自在に操り、闇の中から現れて闇に溶け込むという演出は、バットマンというキャラクターにずっと受け継がれてきたものだ。なのに、この映画を作った人たちは、なぜかそれをすっかり忘れてしまったようだ。
結果として出てきたのがこれだ。

いまだにバットマンの最高のアニメーションが、30年前のカートゥーンのオープニングだという事実には、正直あきれてしまう。
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